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知ってほしい「ミラノの歴史」
15 gennaio 2019

第1回

ガリア人集落からローマ帝国の首都に

  
 文と写真   大島 悦子 
1. はじめに
●「目に見えにくい」ミラノの歴史

ファッション、デザイン、金融、ビジネスの「首都」ミラノ。「グラッタチェーロ」と呼ばれる超高層ビルや美しいショーウインドーのまぶしい国際都市ミラノ。この地で何が起こり、どんな人々が暮らし、働き、戦い、この町が形成されてきたのか。ミラノの有史2500年におよぶ歴史を理解するのは容易ではない。

写真トップ@ミラノ市立考古学博物館の「ジュビター巨頭像」(紀元1世紀後半)
写真上左Aデザインの殿堂「ミラノ・トリエンナーレ」   写真上右Bポルタ・ガリバルディ地区の超高層ビル

ローマやフィレンツエなど、現在も道行く人々に様々な歴史区分を代表する遺跡や建築物を露呈している都市とは異なり、また中世の建物や景観が何世紀にもわたって保存されている小都市とも違い、ミラノは、街中で眼に見える形で残されているものから歴史を理解することは難しい。しかし、それはミラノに語るべき歴史がないためではない。その逆である。波乱万丈の変遷があったからこそ、その歴史を現在のミラノの街から理解するのは難しいのだ。

ミラノはその長い歴史の中で、外部からの蛮族の侵入や戦役、大きな政治的社会的変化等により、既存の建物や町の一角や全域の破壊、その再建活動、あるいは新たな都市の改造というプロセスを繰り返してきた。近代でも1860年代のイタリア統一後、ミラノは「遅れてきた国イタリア」脱皮のため近代的都市作りを目指した。第二次大戦中は連合軍爆撃により中心部の多くが破壊され、戦後の再建は「奇跡の経済復興」といわれるブームの中で急速に進み、ミラノはイタリアの産業・ビジネス中心地としての役割を邁進した。

こうしたダイナミックな動きの連続こそが、他のイタリア都市にはないミラノの特色ともいえよう。したがって、ミラノの歴史を、特に古い時代の歴史を理解するためには、想像力と知的好奇心が必要となろう。

とはいえ、変わらない都市構造もある。時代に応じ建造物は変わっても、その建物が持つ役割は変わらないものもある。たとえば、現在のドゥオーモ(大聖堂)のある場所は、紀元前には「多神教異教の寺院」があり、その場所に、紀元300年代後半、初期キリスト教宗教建築物が建設された。約1千年後の1386年、その場所に古い「カテドラル」を一部維持しつつ現在のドゥオーモの建設が開始されている。こうして、人々の信仰の中心拠点としての意味は常に継続されてきた。

写真上Cミラノのドゥオーモ(大聖堂) 

近年は、ミラノ市内中心部の地下鉄開設工事を契機に、ミラノの古代遺跡が日の目を見ることで、ローマ時代以降のミラノの歴史研究に大きな刺激が与えられている。また、ミラノ市内には、「モネタ(貨幣)通り」「スパダーリ(刀類製造)通り」「オレフィチェ(金細工制作)通り」など、かってその地域で営まれていた職業や営みを伝える通りもあり、通り名から、はるか昔の工房の賑わいをしのぶことも可能である。

写真上左D地下鉄工事中に発掘され「ミッソーリ」駅構内に保存展示されているローマ時代遺跡
写真上右E「Via Moneta」(「貨幣鋳造所」跡を伝える通り名)

■「アルプス山脈」と「ポー川」の間に
ミラノの歴史を理解するためには、基本的な地理的枠組みを二点、知っておいてほしい。
まず、晴れた日に、ドゥオーモ屋上に上ってみることをおすすめしたい。足元に見えるミラノ市中心部の景観も素晴らしいが、眺めてほしいのは運がよければ北西方面にはるかに望むことのできる「アルプス」だ。この西から東にぐるりとめぐるアルプス山脈はイタリア半島をヨーロッパ大陸と分ける「自然の境界」の役割を果たしてきた。とはいえ、アルプスの障壁は越えがたいものではなく峠道と谷あいが双方の往来を可能としている。アルプスは「壁」「境」の役割を果たすと同時に、人・モノ・情報の交流の通り道でもあった。                         

写真上Fドゥオーモ屋上からの眺め。画像の遠方真ん中の二つの超高層ビル「トレ・トッリ」の後に白いアルプスが望める。 真下はドゥオーモ広場(2018年12月撮影)

もう一つの「自然の境界」は、ミラノの南方約50〜60キロ付近を流れるポー川の存在だ。イタリア半島の付け根からアルプス山麓にかけての大陸部全長650キロにおよぶポー川が西から東へと流れ、その流域にポー平野、すなわち「パダーナ平原」と呼ばれる豊かな農業・牧畜地帯を形成している。豊かな水、肥沃な大地、現在でもイタリア最大の農業地域として知られ、この地方の豊かさの源となってきた。さらに、アルプスに端を発し、コモ湖を経てミラノの東方を流れるアッダ川、マッジョーレ湖を経てミラノの西方を流れるティチーノ川の両川がともにポー川に流れ込み、この地域を潤している。

北は「アルプス山脈」、南は「ポー川流域」に広がるパダーナ平原。この一帯を、ローマ人は、「アルプスの此方」という意味で『チスアルピーナCisalpina』と呼んだ。さらに、『チスアルピーナ』の中を、ポー川の北側と南側を区分し、ミラノのある「ポー川向う側(ポー川北側)」を『トランスパダーナTranspadana』と呼び、「ポー川南側(ルビコン川まで)」と区分された。まさに、ポー川北側のパダーナ平原の「中心都市」の一つとしてのミラノのロケーションが、その後のミラノの「運命」に大きく影響することになる。                  

■ミラノの起源と「メディオラーヌム」の由来
ミラノの起源については諸説があるが、ここでは、主なポイントとして、下記の内容を知っておいてほしい。 紀元前5世紀末から4世紀にかけて、ヨーロッパ全域を襲った経済的・政治的な危機の後、ケルト人(ローマ人のいう「ガリア人」)の新たで大量の移民の波がイタリアに到達した。「アルプス山脈からルビコン川までに広がる地域一帯」はガリア人の住む地域となった。パダーナ平原の中心地域であり、ティチーノ川、ポー川、セリオ川に囲まれた地域は、紀元前400年頃、インスブリ族に占領された。その中心地が現在の「ミラノ」となり、ミラノの遠い歴史はここから始まることになる。 なお、紀元前387年、ガリア人によるこの波の一つはローマを急襲し、ローマとラテン同盟市の軍をローマの北16キロ、テヴェレ川の支流のアッリア川付近での戦いで破り、破壊・略奪を行い、ローマ人を驚愕させた。

「メディオラーヌムMediolanum」という名前の起源についてもいくつか解釈がある。 もともとはケルト語で「中間の場所」という意味をする都市名で、古代ローマ人からはラテン語化して「メディオラーヌム」と呼ばれるようになった。「テリトリーの中心」とも解釈可能で、その中心性は地理的というよりも、むしろ宗教的なものでミラノの神聖性を際立てる説である。この時代、インスブリ族連合の政治的・宗教的中心の役割を担い、古代文学者たちが「ギリシャの女神アテナ」と名付けた女神に捧げる、部族連合の神殿が設置されていたようだ。実際、インスブリの領土は現在のミラノ県とヴァレーゼ県にほぼ呼応しているが、その地域内ではミラノは地理的にはむしろ周辺部の場所にある。          

写真上Gメルカンテ広場のラジョーネ館(13世紀建造)外壁にはめ込まれた「半分毛で覆われたイノシシ」浮き彫り彫刻。紀元後4世紀頃の作とみなされている。

もう一つは「メディオラーヌム」という名前を「半分だけ毛で覆われたイノシシ(あるいは雌豚)」に結びつける伝説であり、これにも根拠があるわけではない。このイノシシの話は、ローマの建国にまつわる狼の像と同様に、おそらく、ガリア人のミラノの「トーテム」的な象徴とされていたようだ。

2.ミラノ、ローマ化の進展
●前222年、インスブリ族ローマ軍に敗れ無条件降伏

ローマ人は、第一次ポエニ戦役(紀元前264年-同241年)でカルタゴに勝利を成し遂げた後、紀元前270年に、リミニの北をアドリア海に流れ込むリビコン川以南のイタリア半島統一を完成。紀元前225年ガリア軍がポー川を渡って南下を開始すると、これを迎え撃つローマ軍は、この機にパダーナ峡谷の征服を求め、北辺の問題の根本的解決をすることを期した。「テラモーネの戦い」(現在のグロセット県オリベッロ付近)での戦闘はガリア人部族連合体に対するローマ軍の勝利で、彼らをポー川北部に追い詰めた。前224年、ローマ軍はルビコン川を越えガリア民族の切り崩し作戦にでる。

前223年、ローマ軍はインスブリ族と衝突。前222年、アルプスを越えてきた援軍も加えたガリア人が、ローマ軍に攻勢をかけたが、ローマ軍はピッツィゲーットーネ(現在のクレモナ県、ポ―川北)を獲得しカステッジョ(パヴィアの下、ポー川南)で勝利し、ローマ側はポー川の川上まで攻め上がり、前222年アルプス以南のインスブリ族の本拠地であったミラノを占領し、ミラノは無条件降伏する。

前220年には、アルプス以南のガリア人の平定はひとまず終わったといえるまでになった。ローマはポー川以南の地の「ローマ化」する取り組みを始めており、ポー川北のインスブリ族に対しても、自らの領土の所有が認められるという好条件が譲与されたことでローマ化浸透は決定的な局面を迎えたかにみえた。

■ハンニバルの第二次ポエニ戦役とインスブリ族
しかし、ハンニバルがその時間をあたえなかった。第二次ポエニ戦役(前218-201)が始まったためだ。前218年、ハンニバルが象軍団を引き連れてアルプスを越え、北イタリアへ突然出現したことで、ガリア人、特に以前からカルタゴ人との間に傭兵の関係を持っていたインスブリ族とボーイ族の反ローマ感情を再び目覚まさせることになる。ハンニバルはインスブリ族に対し、ローマ人からミラノを返還させることを条件に、ハンニバルへの協力を求めたため、インスブリ族はハンニバル側につくことになった。

●インスブリ族、ローマに完全降伏・新しい時代に
ハンニバルのイタリアにおける戦役失敗の後、前202年、ザーマにおいてローマ側が勝利し、ローマはパダーナ平原のガリア人部族の最終的な攻撃に戻ってきた。ゲリラ戦による壮絶な戦いの後、前194年、ミラノの戦いで敗北し、ガリア人は前191年に最終的に降伏した。これにより、ローマ人と『チスアルピーナ』のガリア人との関係において新時代が開かれることになる。

パダーナ平原にはローマ植民化の集中的な計画が実行され、前189年、ラテン植民都市にボローニャ、ローマ植民都市には、前183年にモデナとパルマ、これらの都市がリミニからピアチェンツアをつなぐ「エミリア街道」により接続され、ポー川南側全域の速やかなローマ支配が進められた。

それに反して、ミラノの位置する、ポー川北側では、ローマ人は、一定の自治を保証し、ガリア人と「連邦的」な関係を広げ、『トランスパダーナ(ポー川北側)」のガリア人』の地域的統一を維持したものと推察されている。また、『トランスパダーナ』におけるローマ化の進展は東側でよりスピーディで、ミラノのある西方向はゆっくり進んでいった。実際、前148年につくられた「ポストウミア街道Via Postumia」はジェノバからアクイレリアに達する街道でラテン植民都市ピアチェンツアとクレモナを通っているが、インスブリ族の領土は迂回していた。この地域の本格的な「ローマ化」はカエサルの時代を待つことになる。

とはいえインスブリ族の間にも次第に、少しずつローマ化の流れが浸透し、一世紀もしない前101年には、パダーナ平原で、ローマ人の傍らで、イタリアに対する最初の大規模なゲルマン人の侵入「チンブリ族」への防衛のために尽力している。

写真上左H女神像(紀元前2-1世紀) 写真上右I官服をまとった男子像(紀元前1世紀中頃) 
(ともにミラノ市立考古学博物館所蔵)

●同盟戦争後、ポンペイ法により「ラテン市民権」
前91年に勃発した同盟戦争で、ローマに対する反旗に参加しなかった住民に対し、ローマ側はローマ市民権を付与する妥協に頼らざるを得なかった。インスブリ族は、同盟戦争時にローマ人に忠実に奉仕をしたため、前89年、「ポンペイ法」により、「ラテン植民地」に昇格し、「ラテン市民権」が譲与された。元老院などの投票権や議員への選出権など政治的権利はないもの、兵役義務化、商業、ローマ市民との結婚など市民的権利が与えられるものだ。さらに、地域の政治的・社会的な伝統的体制を壊さずに、地域支配階層の絶対権力を再確認するもので、同法によりミラノでも地域エリートによるローマの文化的・居住的モデルへの急速な同化に弾みがついた。ミラノが政治的・市民的にある成熟度に達したことを認識する最初のシグナルであり、それはさらなる認可「ローマ市民権」を暗黙に示すものだった。

しかしその期待はミラノにとって幻滅に終わった。前81年、無期限の独裁官に就任したスッラは国政改革に着手し、イタリアを半島全体をローマの大きな周辺部としたが、スッラの属州統治システムでは、この大きな「ローマ」からミラノのあるパダーナ平原一帯は除外され、アルプス向こうの地域と同様に、十の属州の一つとして、『ガリア・チサルピーナ(アルプス以南のガリア)』という属州の一つとなり、ラヴェンナに官邸を持つ属州の軍事監督下に置かれることになったのだ。

●カエサルにより「ローマ市民権」授与
前59年、カエサルがこの、『ガリア・チサルピーナ』および、イリリア属州、さらに、「ガリア・トランスアルピーナ(アルプス向う側のガリア)」の3つの属州の最高責任者となり10年にわたって務めることになったことで、ミラノを始め北イタリアの運命を大きく変えることになる。ガリア征服(前58-同50年)当時、カエサルはこの地域から忠実な兵隊を集めガリア戦争において広く活用し、属州として委嘱された『ガリア・チサルピーナ』を、その都市的・経済的発達へあらゆる面で刺激を与えた。

前49年、カエサルは元老院で「カエサル法『ロシウス法』)を可決させこれにより、『ガリア・チサルピーナ』全域住民に「ローマ市民権」が授与された。ガリア戦役中の後方支援を果たしてくれた北伊の属州民へのほうびとして、この地域一帯を本国イタリアに編入したのだ。その結果、アルプスとポー川の間にある他の都市と同様、ミラノは『ムニチピオ(Municipium)』に昇格した。

当時のミラノの状況についてはあまり史料はないものの、ダンテの「神曲」でも知られるラテン詩人ウェルギリウス(前70年―同19年)はマントヴァ生まれであるが、若いころ、ミラノで修辞学を修めたとされている。

●アウグストウス帝の行政改革でイタリアへ完全統合
『トランスパダーナ』のイタリアへの統合は、初代ローマ皇帝、アウグストウス帝時代(紀元前27年―紀元14年)におおよそ完全に実現されることになる。アウグストウスが、ローマの国境をアルプスからメッシーナ海峡まで広げ、行政改革により、それまでの属州『ガリア・チサルピーナ』を廃止し、『トランスパダーナ』という名前の拡大したイタリアの「11番目の州」としたことで、ポー川向側の領土も、イタリアの他の地域とすべての点で平等の権利が認められことになった。この名前は、「古き侵入者ガリア人」の記憶を抹消するため、「ガリア」という名称も無くしている。「11番目の州」、『トランスパダーナ』州は現ロンバルディア、ピエモンテ、ヴァッレ・ダオスタの三州からなっている。

この行政改革は住民の部族別や伝統・風俗の違いも配慮したもので、中央集権が効率よく機能することを目指していると同時に、州内部の自治の地方分権確立も意図していた。それにより、ミラノも、軍事的支配、プロコンソルによる絶対権力を特色とする属州統治から解放され、ローマの法律が「ムニチピオ」に保証していた自治および自己統治を享受できるようになった。

●ミラノ、ローマ都市としての整備すすむ
紀元1世紀ローマ帝政期、ミラノは周辺地域の中心的な都市であった。元々がインスブリ族の首都であったため主要幹線街道が通らないため、ミラノの政治的重要性は低かったが、文化・手工業・商業面はかなりの水準を保っていた。

写真上左Jケルト族出身の夫婦の墓碑(1世紀初頭) 写真上右K衣服製造職人の墓碑(1世紀中頃) 
(ともにミラノ市立考古学博物館所蔵)

前述したように紀元前49年に「ムニチピオ」に昇格すると、「城壁」の建設が始まり、面積約80ヘクタール、周辺長さ約3500メートルにわたり、「堀」にかこまれていた。そして「メディオラーヌム(ミラノ)」も、この時代、ローマ人が都市であることの必須条件と考えていた「フォーロ」、公会堂(バジリカ)、円形闘技場(アンフィテアトロ)、公衆浴場等の諸設備が整備されていった。

写真上左L「フォーロ」見学入り口   写真上右Mアンブロジアーナ図書館にある「フォーロ」のオリジナルモザイク床 

都市の政治的・宗教的・行政的機能の座であり、商業活動の要である「フォーロ(公共広場)」はミラノの中心地、主要道路が交差する地点、現在のサン・セポルクロ広場にあった。アウグストウス帝時代につくられた床面が舗装され、記念碑的に建造された長方形の大広場であり、その長いほうの側面には商店(ボッテーガ)が並び、名誉ある彫像で飾られていた。現在、フォーロ跡は、サン・セポルクロ教会地下部分で見学ができ、モザイク床の一部は、アンブロジアーナ図書館で、そのオリジナルの設置場所で見学が可能だ。

写真上左N円形闘技場跡 (アンフィテアトロ・ローマ公園)    
写真上右O「グラディアトーレ(剣闘士)ウルビクス」の墓碑 (3世紀頃、アルダ・レーヴィ出土品収蔵館)

古いポルタ・ティチネーゼから遠くない、城壁の外に、1世紀に、ミラノの「円形闘技場(アンフィテアトロ)」が建設された。観客2万人を収容し、北イタリアで最も大きく最も有名な円形競技場の一つであった。楕円形競技場を観客用階段席が囲み、剣闘士間の決闘、人間と猛獣の戦い、公開の刑執行や海戦などが行われた。

その後紀元5世紀頃、円形闘技場の建材は剥ぎ取られ、他の建造物や都市城壁の強化などに再利用された。その代表的事例が、ミラノで最もよく保存され、もっとも有名なローマ時代の史蹟である近くの「サン・ロレンツオ聖堂前の大理石の列柱」である。「円形闘技場」をはじめ、公共建築物から取られた、円柱、貴台、柱頭、古い建造物パーツなどを用いて、聖堂前の柱廊玄関の遠近画法的構図で建立されたものだ。

写真上P「サン・ロレンツオ聖堂前の大理石の列柱」

「ムニチピオ」のエリートたちは、自分の邸宅を絵画・モザイク・彫刻で飾り、首都ローマ様式の製品をつくる地域工房の生産を推進した。都市内では、金属や骨を加工し、ワインや毛織物・麻織物などを交易し、布地や陶磁器が生産された。洗練された顧客に応えるため、ガラスや食器用の上等な陶磁器や陶器も生産されている。発掘により出土したアンフォラは、ワインに関して、アドリア海地域と特にイストリアとの広大な交易網を示すものである。スペインからは、ワイン、ガルム(魚醤)、オイルが到来している。

写真上左Qアフロディテ(愛と美の女神)とイルカ像(1世紀) 写真上右R祭壇に描かれた女神像(2世紀初頭頃) (ともにミラノ市立考古学博物館所蔵)

●ミラノは軍事防衛都市としての重要性を増す
紀元三世紀後半、ローマ帝国はライン河・ドナウ河を脅かす蛮族の脅威、皇帝および帝位略奪者が次から次へと交換するという「軍事的無秩序」の時代となり、この何十年間の間、ミラノは軍団派遣の基地として次第に重要性を獲得していった。260-261年頃、ミラノでは造幣所が機能し始めるが、これは兵隊への支払いやこの地域や町の防衛のために、皇帝ガリエヌスが開設したものだ。262年、ミラノはガリエヌス帝とアレマンノ族の戦いの舞台となり、同帝が勝利しアレマンノ族を跳ね返し、ミラノはドナウ地域からくる蛮族侵入に対する砦となった。同帝は268年、簒奪者アウレオロがたてこもっていたミラノを攻撃中に、クーデターをおこした騎兵隊長たちにミラノの城壁の下で殺される。

アレマンノ族、マルコマンニ族、ゴート族など蛮族から防衛という厳しい経験を契機に、アウレリアヌス帝(270年−275年)により、イタリアはアウグストウスによる州区分をおおまかなラインのみ継承する「プロヴィンチャ(県)」に地域再編成され、各県は総督により統治されることになった。これにより、現在のロンバルディア、エミリア、リグーリアそしてピエモンテの各州は、ミラノを首都とする「エミリア・リグーリア」という新しい「県」に編成された。ミラノには中央アルプスおよび西アルプス境界地域を見張る任務を明瞭に与えられ、徴兵および軍備業務を行う帝国事務所ともなった。

3.ミラノ、ローマ帝国の首都に
●286年マクシミアヌス帝、宮廷をミラノに
軍事面で長い功績を築いた後、284年に皇帝となったディオクレティアヌス帝(284年―305年)の登場は、ミラノに大きな繁栄の時代をスタートさせることになる。同帝は、膨大な広さの領土を統治することになったため、286年に帝国の領土を行政・税制の観点から二つに分割編成するという画期的な政策を考え出した。二人の皇帝「アウグスト(正帝)」と二人の「カエサル(副帝)」を基盤とする統治制度を設けることで権力の分割を定めた。ディオクレティアヌスは将軍マクシミアヌスを「カエサル」に任命し、その後、「アウグストウス(正帝)に昇格させ、286年に両帝による統治体制とした。ディオクティアヌスは宮廷を小アジアのニコメディアに置き、マクシミアヌスは、大きさも人口もローマに続く西方第二の都市となっていたミラノを、宮廷に定めた。

写真上(20)皇帝の肖像(マクシミアヌス帝あるいはディオクティアヌス帝の肖像とされている)(3世紀頃)、
後ろにある床モザイクは、紀元4世紀のもの。(ミラノ市立考古学博物館所蔵)

●テトラルキア(四頭政)でミラノは西方の首都に
ディオクレティアヌス帝は、簒奪や内戦の原因となりうる「正帝」の後継者問題を未然に防ぐため、290-293年に、二人の「副帝」を指名した。このようにして形成された統治制度は「テトラルキア(四頭政)」として名高く、帝国は4つの広大な領土に分割され、それぞれの「帝」が首座を選択し、下記の体制が制定された。ローマ帝国の東方は、正帝:ディオクレティアヌス(首都:ニコメディアNICOMEDIA=現在トルコのイズミット)、副帝:ガレリウス(首都:シルミウムSIRMIUM=現在セルビア共和国のスレムスカ・ミトロヴィツア)とされ、西方は正帝:マクシミアヌス(首都:メディオラーヌム=MEDIOLANUM=現在イタリアのミラノ)、副帝コンスタンティウス・クロルス(首都:アウグスタ・トレヴェロ-ルムAUGUSTA TREVERORUM=現在ドイツのトリーア)。293年、ディオクレティアヌス帝の本拠地ニコメディアとマクシミアヌス帝の本拠地ミラノで同時発表された。

写真上(21)地図「テトラルキア(四頭政)における4つの首都」
(出典:「Milano Antica V Secolo A.C. - V Secolo D.C.」Civico Museo Archeologico Milano 発行 2016年)

●コスタンティヌス大帝による「ミラノ勅令」
305年にマクシミアヌス皇帝とディオクレティアヌスが退位すると、ディオクレティアヌス後継者をめぐる市民戦争が始まったが、この時代はミラノ繁栄の絶頂期でもあった。 312年にコスタンティヌス帝がミラノに凱旋入城し滞在。北イタリアの帝国首都と宣言されている。そして313年には、ミラノで、東方の新たなテトラキアの正帝リキニウスと、西方正帝コンスタンティヌス帝(306-337)の妹コスタンツアとの豪華な結婚式が執り行われ、まさにこの機会に、信仰の自由を謳う「ミラノの勅令」が発布された。この勅令により、2世紀半におよぶ「禁令」の後にキリスト教信仰の自由が認可され、キリスト教者に対し、ディオクレティアヌス帝時代の大迫害の間に押収された資産や宗教的建築物が返却された。

●ミラノ、西方の「首都」として繁栄し都市計画進む
286年にマクシミアヌス帝がミラノに宮廷を置き、首都となっことで、その後の都市計画的な飛躍を決定づけ、ミラノの顔を変貌することになった。330年にコスタンティヌス大帝により新しい首都がコスタンティノーブルに創立されたことで、ミラノは宮廷と皇帝を継続的な滞在で迎えることは無くなった。とはいえ、ミラノは皇帝の滞在あるいは、北イタリアを皇帝が通過する際の皇帝用の居都となり、ミラノは西方世界で最もプレステージの高い代表的な都市であり続けた。

「皇宮」は、ミラノ西側一区画すべてを占有し、様々な行政業務の活動が繰り広げられた。住居部分、迎賓的部分、私的なテルメ、そしてマクシミアヌス帝の要望により、ミラノの西側に皇邸と緊密に結びつく形で「チルコ(大競技場)」がそびえた。この広大な皇宮区域については、今日は、「ブリーザ通りVia Brisa」に、暖房設備を備えた迎賓的建物のいくつかの壁面部分が見える形で保存されているのみである。

写真上左:(22)「皇宮」再現図ボード  写真上右(23)ブリーザ通りに保存されている「皇宮」の遺跡 

皇邸とチルコ(大競技場)の建設による中心部の再編成の結果、住宅地は、東側では、共和制後期の城壁の外にまで拡大し、そこはマクシミアヌス帝の時代に新しく建造された城壁に囲まれることになった。このため、城壁周囲は西側に建設されたばかりの「チルコ」を含めると、4500メートルに及ぶことになり、曲線を持つ側は、防衛機能のためにも、城壁間の狭間も整備された。この都市開発の軌跡はミラノ市立考古学博物館敷地内の「多角塔(中世以降「アンスペルト塔」と呼ばれる)」に見ることができる。この塔は城壁の一部と結ばれており、同博物館地下には、その城壁の基台部分が続いている。

写真上左(24)市立考古学博物館敷地内に残されているマクシミアヌス帝城壁の一部と「多角塔」
写真上右(25)城壁と多角塔の再現図 

ローマ帝政期のミラノにおける最も重要な史蹟の一つは、マクシミアヌス帝自身がミラノ東側地域内に建設した故に「テルメ・ヘラクレス」と称された約14500平米におよぶ壮大な「テルメ」だ。この「テルメ」付近では、現在、地下鉄5号線開設工事が進行中で、その過程でテルメ関連遺跡が発掘され、研究者による分析も進められている。また、ミラノおよび周辺部に駐留する軍隊を支えるため3世紀末から4世紀初頭まで、食糧保存用の「軍隊用食料保存所」が建造され、帝国の戦略的地点に配置された軍隊に補給するために設けられた広大なインフラ網の非常に稀な考古学的遺跡の一つである。

写真上(26)マクシミアヌス帝が建設させたとされる「テルメ・ヘラクレス」付近で進む地下鉄5番線工事(サン・バビラ広場) 

建築ブームにより壮大な公共建築物が建立され、民間の住居建設事業も巻き込むことになった。今日では、住宅壁面構造や床モザイクの発掘で得られたわずかの考古学的発見をもとにごく部分的にしか再現することはできないが、宮廷に関係していた当時のミラノのエリート階層の豪奢な邸宅の豊かさや洗練さを証明している。 

写真上左(27)豪奢な邸宅の幾何学模様とヒョウの模様の多色モザイク床(3世紀、ミラノ市立考古学博物館)     写真上右(28)ミラノ市立考古学博物館の帝政ローマ期ミラノ都市模型  

4世期中頃から後半には、グレシアヌス帝(367−383)の政策により、ローマにつながる道として「デクマーノ・マッシモ(現在のポルタ・ロマーナ通り)」など重要な交通軸が整備され、城壁外にもポルティコのある荘厳な凱旋門を備えた通りとして建設された。

このように286年から、西方の宮廷がラヴェンナに移される402年まで、ミラノは宮廷の存在、そして官僚機構・迎賓機構により繁栄する都市生活をおくることになる。

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以上、ミラノが、ガリア人集落からローマ帝国西方の首都となる過程をみてきた。ガリア人のイタリアへの侵入はイタリアの歴史に対し大きな影響を与えた。ガリア人によるローマ急襲(前387)からカエサルによるガリア征服(前58-前50年)まで、ガリア人の問題はローマの政治をつかさどる者にとって重大課題であった。この戦いのプロセスの中で、ミラノが形成され、そしてローマ人によるミラノに対する最終的な勝利により、原始的な集落は村落となり、村落はローマ都市として成長していく。そしてローマ帝国の西方首都という「大役の座」にまで登りつめることになる。

カエサルが、ガリア征服により、ローマ帝国に地中海だけでなくヨーロッパという性格を与え、ローマ帝国を北方へ拡張することによって、ミラノは計り知れない価値を持つポジションを獲得した。そして、カエサルがミラノに対し「ヨーロッパ」の「枠組み」を与えたとすれば、アウグストウスは「イタリア」の「枠組み」を与えたとされ、イタリア中部や南部とは異なる、その後のミラノの都市精神形成に大きな影響を与えることになるといえよう。


著者紹介
大島悦子(Oshima Etsuko)

東京外語大イタリア語学科卒。日本オリベッティ広報部、生活科学研究所を経て1990年ミラノ・ボッコーニ大学客員研究員。現在、ジャパン・プラス・イタリア社代表取締役。2000年より「イタリア旅行情報サイト(JITRA)」主宰。イタリア社会・産業・地域事情などの委託調査研究、日伊間ビジネス・文化観光交流事業の企画コーディネートに従事。著書に日経研月報にて「もう一つの市場を創るイタリアのミクロトレンド」連載(日本経済研究所発行)、共著「そこが知りたい観光・都市・環境」(交通新聞社発行)他。

知ってほしい「ミラノの歴史」データ
Dati
■Civico Museo ArcheologicoMilano ミラノ市立考古学博物館 
住所:Corso Magenta 15, Milano
開館時間:火曜―日曜(月曜休み)9:00−17:30 (入館は16:30まで)
入館料:大人5ユーロ
www.museoarcheologicomilano.it/

■Il parco dell’Anfiteatro romano e l’Antiquarium “Alda Levi”
ローマ円形闘技場公園とアルダ・レーヴィ出土品収蔵館
所在地:Via Edmondo De Amicis 17、Milano
Pardo dell’anfiteatro  ローマ円形闘技場公園
開館時間:火曜―金曜 9:00−16:30(冬時間) 9:00−18:00(夏時間)土曜 9:00−14:00
Antiquarium “Alda Levi” アルダ・レーヴィ出土品収蔵館
開館時間:火曜―土曜 9:30−14:00
どちらも入館無料
http://parcoanfiteatromilano.beniculturali.it/

■フォーロ Foro (公共広場)
所在地:Piazza San Sepolcro、Milano
アンブロジアーナ絵画館&同図書館およびサント・セポルクロ教会の地下
入り口:Via dell’Ambrosiana (Piazza Pio XI 角)
開館時間:土曜―日曜 15:00−18:00、他の日は予約が必要
ただし、1月、2月は閉館。
見学料:大人3ユーロ
Tel:+39-02-806921
注:フォーロの開館時間は予告なしに変更になる場合がありますのでご注意ください。

なお、「床面モザイク」見学のためには、アンブロジアーナ絵画館Pinacoteca Ambrosianaへの入館が必要。入館料大人15ユーロ

■参考サイト
Milano Archeologia 
milanoarcheologia.beniculturali.it (イタリア語)




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