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知ってほしい「ミラノの歴史」
15 Novembre 2020

第7回

ヴィスコンティ家 
後編 「ミラノ公国」の誕生


 文と写真   大島 悦子 

第一部 「ミラノ公国」
1.戦争とペストの時代
●ヴイスコンティ家の統治拡大へ

前号では、1250年から1350年にかけてミラノでヴイスコンティ家のシニョーリア制確立のプロセスを描いた。ミラノ大司教でシニョーレのジョヴァンニ・ヴイスコンティは、乱立する中小シニョーリアを支配下におき、北はスイス諸州、西はピエモンテ、東はヴェネトと領地を拡大し、さらにはジェノヴァやボローニャも獲得し強大な領域国家を構築した後、1354年に逝去した。

写真トップ@1386年建設に着手されたミラノ大聖堂後陣外側の中央大窓。ここにジャンガレアッツオ・ヴイスコンティのシンボル「正義の太陽」が挿入されている

今号では、第一部で、続く1300年代半ばから約百年間のミラノの動きを扱っていきたい。ヴィスコンティ家統治はさらに進展し、特に1385年、ジャンガレアッツオが全権力を掌握すると、領土拡大政策を推し進め、1395年には皇帝より公位を譲与されミラノ公国を成立し、同国は最大領域を獲得するに至る。1402年の彼の突然の死により公国は解体するが、次男フィリッポマリアにより公国再建がはかられ、規模は縮小するがロンバルディア統一という領域国家が固められる。
そして第二部では、この時代に着工されたミラノ大聖堂について誕生時の経緯やその後の建設進捗を紹介したい。 まず、この時代のヨーロッパの状況をみておきたい。

●傭兵隊による戦争が主流に
この時期、ヨーロッパもイタリア半島も戦争、ペスト、凶作、飢餓などの繰り返す厳しい時代となった。 フランスとイギリスは百年戦争(1337年―1453年)、カトリック教会は1378年にローマとアヴィニオンの教皇が対立する「教会大分裂」(1378年―1417年)の最中で、ほとんど絶え間ない戦争の時代であった。当初は地域的な戦いが大半であったが、ヴィスコンティ家の拡大政策は、イタリア全体を巻き込む戦争に発展する。戦争が日常化する中で、専門の傭兵隊が活躍するようになった。最初の傭兵隊長はイギリス人のジョン・ホークウッドなど英仏の百年戦争に参加した軍隊の片割れだったが、間もなくイタリア人の傭兵隊長(コンドウッティエーレ)にとってかわられるようになった。各地のシニョーレたちが激しく争うなかで「契約」を結びい報酬で戦争を請け負う傭兵隊の活躍の場は極めて広がった。多くの中小都市はコストのかかる「独立」を放棄し、強国の庇護下に入ることを余儀なくされた。その結果、北・中部イタリアでは、ミラノをはじめ、フィレンツエ、ヴェネツイアなどが、長い戦争の過程で領土を拡張し権力を強化することになる。その周囲には小領主の独立状態の続く教皇領、西側にはサヴォイア公国が位置し、その合間にマントヴァやフェッラーラなど中小国家が独立を維持する。
さらに、天候悪化や凶作などに苦しむ中、14世紀半ば以降「ペスト」が到来し、その後も何度も繰り返し押し寄せたこの疫病のために大幅な人口減少が起こった。

●この時期、ミラノは経済力の強さで乗り切る
ミラノもこの時期、ペストや凶作などの影響は少なからず受けた。しかし、イタリア中で猛威をふるった1348年の大ペスト禍は奇跡的に免れた。しかし、ミラノも1399年から1400年にかけて、ペストの破壊的打撃を受け、1400年代初期にも大きな被害を受けた。また1405年には凶作にも悩まされ、政治不安も影響し1408年には大きな人口減少が記録されている。しかし回復兆候も比較的早く、その後人口動向も成長傾向となり、イタリア他地域に比べるとその苦痛やショックは比較的少なかったようだ。それは、製造業、交易、そして何よりも、当時として先端的な農業経営に支えられこの危機を乗り越えたとされている。

モンツア大聖堂、テオドリンダ礼拝堂の壁画

ミラノ北モンツアにある大聖堂の前身は、ロンゴバルド王国テオドリンダ王妃が595年に建立した教会である。この大聖堂の「礼拝堂」には全面を覆う壁画が1440年代に製作され、以後、「テオドリンダ礼拝堂」と呼ばれるようになった。壁画のテーマは紀元6世紀末のテオドリンダ王妃の結婚の経緯を詳細に描いたものだが、ここで描かれているのは15世紀当時の豪華なファッションや金細工、装飾品をまとった女性像であり、ミラノやロンバルディアの繁栄を表す貴重な記録ともなっている。

写真上Aテオドリンダ礼拝堂の壁画

この壁画は地元有力家門が発注し「サヴァッターリ工房」が製作したとされているが、内部半円形窓には、ミラノ公フィリッポマリアの紋章も描かれていることから、同公との関係の有無も議論されている。

2.ガレアッツオ2世とベルナボの分割統治
●テリトリーを地理的に二分して支配

ミラノの大司教、シニョーレでもあったジョヴァンニ・ヴィスコンティは1354年に逝去するが、統治を、自分の甥のガレアッツオ2世とベルナボに分割して引き継がせる手はずを整えていた。すなわち、地理的に二分し、ガレアッツオは西側のパヴィア、ピアチェンツア、コモ、ノヴァーラ、ヴェルチェッリ、アレッサンドリア、アスティを、一方、ベルナボは東側のローディ、クレモナ、ベルガモ、ブレーシャ、ピアツエンツア、パルマ、レッジョエミリアを支配下においた。ミラノも両者で二分した。ジョヴァンニは、生前、ガレアッツオ2世とサヴォイア家の娘、ビアンカ・ディ・サヴォイア、ベルナボとヴェローナのスカラ家のマスティーノ2世の娘、レジーナと結婚させており、東西に直接隣接する強力家門と婚姻関係を築くことで、ヴィスコンティ家支配の継承をはかっていた。

神聖ローマ帝国カール4世がローマでの皇帝戴冠のためイタリアに南下し、1355年1月6日にミラノ聖アンブロージョ聖堂でイタリア王に戴冠された機会に、二人は多大な貢納金と引き換えに皇帝代理のタイトルを譲与され公的立場も確認された。

二兄弟の性格は正反対だった。ガレアッツオは寡黙で怒りやすく内気であった。ベルナボは陽気で遊び仲間や道化師を引き連れることを好んだが、何千頭もの犬を民衆に強制的に育てさせるなど強引な仕打ちも多く人々から恐れられた。二人の間には警戒しながらも調和的関係が続いた。

●ガレアッツオ2世、パヴィアを本拠地に
1359年、ガレアッツオ2世の統治下パヴイアで、ヴィスコンティへの反抗勢力の動きが激しくなると、彼は反乱を鎮圧し武力でパヴィアを征服した。ベルナボの行動力に押され気味のガレアッツオはこれを機会に宮廷ごとパヴィアに移転し、ミラノには拠点ポルタ・ジョヴィア城のみを残した。そして1360年から5年かけて、華麗で広大なパヴィア城を建設させた。1365年末パヴィア城を訪れたペトラルカは親友ボッカッチョへの手紙で、パヴィア城の見事さを賞賛している。ガレアッツオはペトラルカの助言を受けてパヴィア城内に図書館も創立した。

写真上左Bパヴィア城、中庭を囲み一辺150メートル四方の広大な城   写真上右Cパヴィア城、ヴイスコンティ家門の描かれた天井画

さらに、ガレアッツオ二世は、1361年に神聖ローマ帝国カール4世の証書を得てパヴィア大学を創設させた。ヴィスコンティ国中央政府機構や統治下地域の指導的階層養成を目指し、君主的思想の政治的法制的な理論を深化させる中心地となった。

写真上Dパヴィア大学入り口に現在もあるガレアッツオ2世像

●ベルナボ、エネルギッシュに勢力を誇示
一方、ベルナボはミラノ中心地に広大な屋敷を建設し要塞化して守りを固めた。内部にはサン・ジョヴァンニ・イン・コンカ教会を取り込み、教会空間は貴族広間と改造させ饗宴を繰り広げた。自身がボニーノ・ダ・カンピオーニに制作させた『記念碑的騎馬像』もここに置かれていた。

『ベルナボの記念碑的騎馬像』

ベルナボが生前、1363年頃、当時最も高名な彫刻家ボニーノ・ダ・カンピオーニに製作させた自身の騎馬像。その後、石棺の下は、カンピオーニの工房により制作された。

写真上Eボニーノ・ダ・カンピオーニ作『ベルナボの記念碑的騎馬像』 

サン・ジョヴァンニ・イン・コンカ教会に保存されていたが、現在、ミラノ・スフォルツエスコ城博物館所蔵に所蔵されている

ベルナボは攻撃的に統治テリトリー拡大をはかり、特に教皇庁エリアのロマーニャ地域を狙い、ローマ教皇を相手にボローニャ征服のため果てしない戦いを試みた。ベルナボと教皇特使アルボルノスの間で激しい戦闘の結果、結局ボローニャは教皇に帰属することになった。(1360)

●ヨーロッパ王家や君主との婚姻政策
婚姻政策についても、それ以前の3世代が、ロンバルディア貴族や中・北部イタリア有力家門との結婚を目指したのに対して、この二人はヨーロッパレベルの連携に狙いを定めフランス王、イギリス王、アラゴン王、ハンガリ王、オーストリア公やバイエルン公など当時の主要王家や強力家門と緊密な絆を築くことになった。

ガレアッツオ2世は、娘のヴィオランテをイギリス王の息子である、クラレンス公、リオネッロ・ディ・アンヴェルサと結婚させ、息子のジャンガレアッツオを、フランス王の娘イサベッラ・ディ・ヴァロイスとの結婚をまとめあげた。スカラ家のレジーナと結婚したベルナボは、息子5名、娘10名、あわせて15名の子供をさずかり、ベルナボはドイツ世界へ強い関心を持ち、娘はヨーロッパの王族貴族の重要人物公国の君主達の妻となった。     

●息子ジャンガレアッツオの統治へ
ガレアッツオ2世が1378年に逝去すると、27歳であった息子のジャンガレアッツオに統治が移った。「警戒しながらの調和」的関係は、ジャンガレアッツオと叔父のベルナボとの間にも継続したようである。1378年、神聖ローマ帝国皇帝にルクセンブルク家ウエンツエルが戴冠すると、ジャンガレアッツオは、翌年には新皇帝から皇帝代理の位を受け自らの公的立場の再確認をはかるが、ベルナボは自らの権力を過信しその種の手続きにこだわらない態度を示した。

ジャンガレアッツオは最初の妻イサベッラ・ディ・ヴァロイスの早すぎる死去の後、ベルナボから娘のカテリーナとの結婚を押しつけられ、1380年にカテリーナと結婚しベルナボの婿にもなった。その後もジャンガレアッツオはパヴィア城にこもり、読書や祈りを好み、詩人や法律家、建築家などに囲まれる生活をおくった。一方、ベルナボは1384年に妻レジーナを病気で失っていた。レジーナは政治的手腕もあり、ベルナボにとっては協力者、戦友でもあった。ベルナボは多数の愛人をもったが、妻との結びつきは深くその不在はこたえ、また60代となり過労や不調を感じるようになっていた。   

3.ジャンガレアッツオ 全権力掌握
●ジャンガレアッツオによる「クーデター」

そして、1385年5月6日、ミラノのサンタンブロージョのプステルラ(小門)前で、この二人の出会いがある。ジャンガレアッツオは、ヴァレーゼの教会を訪問する際にパヴィアからミラノを通過するのでその機会に叔父に挨拶をしたいと願いでたのだ。 二人の息子を伴いラバに乗ってあらわれたベルナボを、ジャンガレアッツオは側近が率いる警備隊の手で、その場で捕えさせ、息子達も押さえ込んだ。綿密に準備された電撃戦だった。そして、叔父をトレッツオ・スラッダ城に捕囚し、ベルナボは数ケ月後の12月19日そこで亡くなった。スープに毒が盛られていたという噂が広まったが真相はさだかでない。 

写真上Fサンタアンブロージョ小門

ミラノ市内ではベルナボの失脚は大喜びで迎えられた。ベルナボの長期間の戦争のための重税や横暴な統治が人々を苦しめていたのだ。一方、ベルナボ統治下だった都市には、ジャンガレアッツオの部下が大勢の傭兵を用いて不意打ちをかけ攻撃したため突然の統治者交替を受け入れるしかなかった。こうして、若いジャンガレアッツオは、7年間続いた国家の二分統治を自らの決断で終結させ、あらゆる領土とすべての権力を自らの手中に掌握させることになる。

ジャンガレアッツオの最初の行動は、叔父ベルナボの政策に対する裁判で、叔父の政策の乱用や不正行為を暴露することで、自らの力による行動を倫理的にも正当化した。内政面では、人民の好意を買うために当面は重税を軽くすることに尽力し、規範を課しその維持のために毅然とした立場を通し、治安安定をはかった。

●パヴィアを統治拠点、「王国」への野心
ところで、ジャンガレアッツオは単独シニョーレとなった後も、パヴィアを本拠地とし、父ガレアッツオ2世の建てた壮大な城をさらに豪奢な宮廷とし、ヴィスコンティ国政治官僚機構をパヴィアに集中させ統治を行った。彼がパヴィアを選んだのは偶然ではない。彼は自らの国を「王国」とする野心をいだいており、そのためにも長年ロンゴバルド王国首都であり、その後もカルロマーニョとその子孫の築いた「イタリア王国」首都 であり続けたパヴィアに「政治首都」置くことを決めたのだ。一方、ミラノでは、市内ポルタ・ジョヴィア城など主要市門の要塞をこれまで以上にさらに堅固とし守りを固めた。

ジャンガレアッツオは、文化人や書物に対する関心は高く、父の創立したパヴィア城内図書館を度重なる戦争の戦利品あるいは他宮廷との交流により増大させている。重要な手稿本の収集をすすめ彼自身も細密画本の発注を行い、ミラノ貴族社会における細密画芸術の発達を育成することにもつながっていく。

写真上G「ヴイスコンティ家 時祷書」

ジャンガレアッツオが発注した細密画手稿本「ヴイスコンティ家・時祷書(Libro d’Ore、Offiziolo Visconti)」はジョヴァンニーノ・デ・グラッシ作の50頁からなる野心作であり、ヴイスコンティ宮廷の理想や文化を理解する上でも主要な作品となっている。

そして、1386年、ミラノでは大聖堂建設事業が着工されるが、この件については、第二部で詳しく述べたい。

写真上H「ドウオーモ模型」(ミラノ大聖堂博物館)

●娘ヴァレンティーナ、フランス王の弟と結婚
1387年4月には、ジャンガレアッツオの威信をかけた婚姻政策を実現させる。最初の妻イザベッラ・ディ・ヴァロリスとの間の娘、ヴァレンティーナを、フランス王シャルル6世の弟のトウレンネ公爵、ルイ・ヴァロア・オルレアン公爵との正式婚約をまとめあげたのだ。ヴァレンティーナは仏王ファミリーというプレステージの高い結婚に必要な貴族性をすべて備えていたわけではないが、そこは、1387年1月27日にフランス王シャルル6世列席のもとに署名された結婚契約書に記載された莫大な婚資により補完された。結婚契約書には、ジャンガレアッツオが直系男子嫡出子を得なかったら、相続権はヴァレンティーナとその子供達に与えられるという項目も含まれており、その後のミラノの運命に重要な影響をもたらすころになる。実際、100年以上の年月を経てヴァレンティ―のとオルレアン公の子孫が、この結婚契約を根拠にヴイスコンティ家の相続権を請求し、ミラノ公国に攻め込んでくることになるのだ。

●領土拡大政策と「反ヴイスコンティ連盟」
1390年ごろから、ヴイスコンティとフィレンツエの対決の時期にはいる。フィレンツエは、ジャンガレアッツオの領土拡大政策に危機感をもったボローニャ、ピサ、カルラーラ家(パドヴァ)ゴンツーガ家(マントヴァ)などと反ヴイスコンティ同盟を1392年に結んでジャンバレアッツオと対抗しようとした。そこには、失脚させられたベルナボの子供達やそのヨーロッパでの婚姻関係ネットワークも加わり、反ヴイスコンティの輪は大きく広がった。

写真上I「月桂冠を抱いた詩人」 14世紀末頃 (ミラノ・スフォルツエスコ城博物館)

4.ミラノ公国の成立
●ジャンガレアッツオは初代ミラノ公爵に

1395年、ジャンガレッッツオは神聖ローマ帝国ヴェンチェル皇帝から初代ミラノ公爵位を授与される。同皇は、ガレアッツオの巧みな外交戦術と巨額の献納金とひきかえに公爵タイトルを与えたのだ。これはジャンガレアッツオ粘り強く追求してきた挑戦であった。ミラノは「公国」となることで、これまでは形式上だけであろうと、重要案件は統治下の都市市議会から承認を得る必要があったが、今後は全権をもっての統治が可能となった。「皇帝代理」など一時的な称号に頼る必要もなくなった。こうして人々は君主に対し忠誠と服従を義務づけられる「臣民」となったのである。この当時、中・北部イタリアで「公爵」位を持つシニョーレは他になく、その意味でも、ジャンガレッツオに上位の威厳を与えることになった。彼にとって、巨額の金額を支払ってでも獲得したいものであった。2年後1397年にはミラノとその周辺だけでなく、ロンバルディア一体にまで公爵のタイトルを広げることが皇帝から許された。

  

ジャンガレアッツオの公爵位授与式

ジャンガレアッツオの公爵位授与のセレモニーとその大祝宴の豪華さ、壮大さは、有名な細密画「ジャンガレアッツオ公位授与記念ミサ典書Messale per l’Incoronazione」にも詳細に描かれている。

写真上J「公位授与記念ミサ典書」

ジャンガレアッツオが委嘱した手稿本のうち最も壮麗なもの代表作で、1400年制作とされ、聖アンブロージョ聖堂に献納された。



●パヴィアのチェルトーザ大僧院
1396年8月、ジャンガレアッツオの手により「チェルトーザ・ディ・パヴィア」の最初の石が置かれた。これはもともと妻カテリーナが嫡出子誕生の請願をかけたもので、1388年長男ジョヴァンニマリアが生まれると建設準備を始めていたが、公位を得た翌年に具体化させた。パヴィア城とつながる広大な公園との境に建設され、「公爵」の威厳と一族の栄光を祝い、同家の菩提寺を目指すものであった。

写真上左Kパヴィアのチェルトーザ僧院    写真上右L同僧院右翼廊にあるジャンガレアッツオが聖母マリアに僧院を献納する姿を描いた壁画。1492年頃、ベルゴニョーネ作

●国家体制基盤整備とさらなる領地拡大
公爵位をとるとすぐ、自ら専制的に立法権を管理し唯一の君主として位置づけた。公国の組織や各種制度の改革を手がけ、広大な領土下の個々の都市やコンタードの利益を乗り越える「中央政府」をおき、「中央集権化」を志向した。各都市の「自治的な行政機構」では、ジャンガレアッツオが選び任命する人物が大きな権威を持った。

ジャンガレアッツオは、1399年6月には南下しアペニーノ山脈の彼方、中部イタリアのペルージャ、アッシジ、シエナを取得。さらに、1400年初頭にピサを征服した。1402年6月、ついにボローニャの征服を実現させ、ヴイスコンティ軍は最大ライバルのフィレンツエ付近を包囲網で取り囲んだ。イタリアではミラノ公が「イタリア統一」を果たすのではという心配をさせるまでに達した。

しかしまさに、フィレンツエが最悪の事態を案じていた時にジャンガレアッツオは突然、ミラノ近郊で逝去する。1402年9月3日のことである。これにより北部・中部における統一国家形成の機会は失われてしまった。

5.ガレアッツオ没後の混乱・公国の解体と再建
●ミラノ公国は傭兵隊長ファチーノの権力下に

ジャンガレアッツオは遺言で、未亡人カテリーナを未成年の二人の息子の摂政に任命し、それを公国政府の重鎮たちからなる摂政会議で支えられる体制を描いていた。公位継承者の長男ジョヴァンニマリアは14歳の少年で性格的に多くの問題点をかかえ、次男フィリッポマリアはまだ10歳であった。

ミラノの状況は急激に破滅的状況に陥ることになる。未亡人でベルナボの娘であるカテリーナ、そして若き公爵ジョヴァンニマリアは内部反対派にあい、それはミラノおよび支配下の都市いずれにおいても分派間の緊張関係の中で広がっていく。カテリーナは第二子フィリッポマリアをパヴィアに移し、安全をはかった。ヴイスコンティ公国下にあった様々な都市ではて地元の自立派シニョーレが、自らの権力を確立した。公国の残りは、ジャンガレアッツオが遠隔征服地に対し、統治させていた将軍たちが、自らの名前で横取りしようとした。中でもジャンガレアッツオ時代からの野心的な傭兵隊長ファチーノ・カーネはジュンガレアッツオの死後、アレッサンドリア、ピアチェンツア、ノヴァーラ、トルトーナなどの領土を我が物とした。さらにパヴィアでは「総督」として、思うままに権力を行使した。さらに1409年11月6日には武力でミラノに侵入し、ジョヴァンニマリア公爵は実権から追放し、自ら「総督」として統治にのりだした。こうして、ミラノもパヴィアも、ジャンガレアッツオの遺児二兄弟も強力な軍隊を率いる傭兵隊長ファチーノの権力下にあった。

●ジョバンニマリアの暗殺とフィリッポマリアの公位継承
1412年5月当初、突然の事件で事態は急変する。ファチーノがパヴィア滞在中に重体に陥った知らせがミラノに届いたのである。ミラノ有力貴族たちは、実質上ミラノ公国を掌握しているファチーノが消えた際に、冷酷で残酷な若き公爵の復讐がどういう形で爆発するかわからず、公爵の暗殺を決意した。1412年5月6日、サンゴッタルド教会にミサに出向くジョヴァンニマリアをこれら陰謀グループが短剣で打ち殺した。同時に、ベルナボの息子エットレ・ヴイスコンティをミラノの新シニョーレとして担ぎ出した。

ジョバンニマリアの暗殺された同じ日、ファチーノもパヴィアで逝去するが、死ぬ直前、ミラノの権力を当時20歳のフィリッポマリアに後継させることを決め、自分の妻ベアトリーチェをフィリッポマリアと結婚させることで、戦争と略奪で獲得した巨大な財産をフィリッポマリアに残すこととした。未亡人は、ファチーノ所有のロンバルディアの多数の都市、またベアトリーチェにも忠誠を誓う最強傭兵軍団、そして現金40万ドウカーティを持参金に、20歳年下のフィリッポマリアと結婚した。5月25日、フィリッポマリアはパヴィアで公爵爵位を宣言し、兄の暗殺者や権力をよこどりしたエストッレ・ヴイスコンティを打倒すべく、ベアトリーチェの軍隊を率いてミラノ征服に打って出、ミラノを掌握した。

●フィリッポマリアによる公国の再建
フィリッポマリアはミラノ公となると父親の残した公国の再建に着手した。外交手腕と武力を交互に用いて、領土の回復、統治の再建に取り組んだ。1414年から1418年にかけて、アレッサンドリア、ローディ、コモ、ヴォゲラ、ピアチェンツア、ヴェルチェッリなどを統治下に収め1419年にはロンバルディアの大部分を回復した。その後、フィレンツエに重大な脅威を与えた。このようなフィリッポマリアによる国家再建は、当然、ヴェネツイアとも利害を対立することになる。こうして、1425年12月、フィレンツエとヴェネツイアは同盟を結んでミラノに対抗することになり、のちに、フェルラーラのエステ家、マントヴァのゴンツアーガ家、モンッフェラート候、サヴォイア公などもこれに参加した。その結果、1428年にはベルガモとブレーシャが分離され、ヴェネツイカ共和国に併合されることも受け入れざるを得なかった。

写真上Mフィリッポマリア像  (ミラノ・スフォルツエスコ城博物館)


●公爵夫人ベアトリーチェの最期
ところで、フィリッポマリアとの結婚で公爵夫人となったベアトリーチェはイタリアの政治マターも熟知し、公的事項に興味を持ち公国に大きく貢献した。しかし、フィリッポマリアは自らが権力を掌握した後にはそれを誰かと分け合うことは許さなかった。この二人の間の力関係こそが、センセーショナルな大事件のきっかけとされている。1418年、フィリッポマリアは、妻ベアトリーチェと騎士見習い青年ミケーレ・オロンベッロの不倫を発覚したとし、不義罪で告発し逮捕させた。ベアトリーチェと若者は監獄にいれられ、厳しい審問と拷問の果てにその罪を告白。その結果ベアトリーチェ、青年は絞首刑にされた。フィリッポマリアは、今や自らの意のままになる強力な軍隊を整備しており、ファチーノ未亡人の政治的役目は終えることになったのである。

この事件に限らず、フィリッポマリアの性格の特異性が研究者の間で議論されてきた。非常に気難しく猜疑心に富む性格であり、公務は熱心であったが、自分ですべてを知りたがり、自分ですべてを決めた。フィリッポマリアは自分が公位につくと、フィリッポマリアはあらゆる中央的役所や行政機関をミラノに移した。ジャンガレアッツオの死去後市民の手により破壊されたポルタ・ジョヴィア城を改修し、公爵の館、教会、公爵夫人用の館、政治行政の役所などが整備された。この城が、現在のスフォルツェスコ城の前身である。さらに城北西には、公爵家の広大な公園が設けられ、活気あるミラ中心地とは、敵対する構造となっていた。

写真上N15世紀中頃、フィリッポマリア・ヴイスコンティが聖アンブロージョ聖堂に献納した「接吻牌(ミサ祭礼用の小牌)」。ミラノの金細工工房の傑作とされている。 (聖アンブロージョ聖堂博物館)。 

事実、フィリッポマリアはミラノで35年間統治を続けたが、この城に籠り、ミラノ市内には一歩も足を踏み入れず、皇帝戴冠など重要行事にも参加しなかったといわれている。必要時には水路を通じて豪奢な船舶で移動し臣下の眼に触れることはなかった。

6.繁栄する都市ミラノの産業
●基幹産業は織物、武具甲冑、金工品

この時代に、ミラノはヨーロッパの中でも、経済水準、人口規模において常にトップクラスの豊かな都市であった。活発な経済の中心地であり、贅沢品やファッションの首都でもあり、重要な外国からの客人も訪れる政治セレモニーの舞台でもあった。
特に、織物、武具甲冑、金工品の製造などの基幹産業で繁栄した。ミラノの毛織物製造は古くから伝統があり、14世紀末にはミラノにはすでに、363社もの毛織物工場があったという記録もある。高級毛織物用にはイギリスやフランドル地方から『細番毛糸』を輸入するため、ブルージュ、アンヴェルサ、ロンドン等をロンバルディア商人の定住拠点とし、英国各地の羊毛をロンバルディアで加工するために輸入した。

繊維でもう一つ重要なのが「ファスチアン」という綿と麻の綾織混合綿布の生産だ。丈夫で価格も手ごろなため、農民、労働者、大工など庶民の衣服に使用された。原料の綿はエジプトやシリアなどから輸入され、麻はロンバルディア農村で栽培された。「ファスチアン」は、国内のみならず、ヨーロッパでも大変評価され、販路は地中海地域にも広がっていた。さらに繊維産業に結びつくのは「グアード」と呼ばれる「大青」栽培である。この葉からインディゴ・ブルーの色素が抽出され繊維の染色に用いられた。「青い金」と定義されたほど高品質で高価で毛織物生産拡大中のイギリスなどにも多く輸出された。絵画用色素としても重宝された。

ミラノ製造業の第二の大きな軸が甲冑などの武具製造で、甲冑、兜、槍、剣、盾や、馬具一式の全ヨーロッパ市場において最も優れた生産者であった。機能性が高く装飾性も優れたモデルは人気を得てミラノの武具製造業は大きく成長し、14世紀にスペインやフランス、英国にまで広がった。さらに、鍵、包丁、鉄線、釘、バケツなど各種金属加工品製造も盛んであった。特に、針の生産は有名で、あらゆるサイズの針を揃え、生産者ブランド入りで包装販売し、針の国際商業の第一位を占めていた。

●興味深い経済振興政策
ジャンガレアッツオの時代以降、ミラノにとり有効な人物に対し「ミラノ市民権」を与え、ミラノへの移住を促進する政策が導入された。当初は文化人、法律家や政治的にヴイスコンティに近い貴族に名誉職的に与える場合が中心であったが、フィリッポマリアの時代には、多数の商人や銀行家、製造業者などに積極的に市民権を与え、外部からの資本や実業人の流入を優遇する政策も進めた。

その代表例が、14世紀末トスカーナ人ながら、フィレンツエの敵である「ギベリン派(皇帝派)」であるためミラノに移住してきたボッロメオ家である。1400年代初頭、ミラノに本部をおき、イタリア各地はもとより、1430年代にはブルージュ、ロンドン、バルセロナなどヨーロッパ主要市場すべてに自らの支店を置く「ボッロメオ商会」に発展させ、金融―商業の大規模企業となった。卓越したビジネスセンスと莫大な資本力で同家は、ヴイスコンティ家そして続くスフォルツアの時代においても、ミラノ公国中央政府の最大の財政上出資者となり、財政支援の見返りとして塩の独占販売権など多くの国家入札特権得た。1439年には、マッジョーレ湖畔アローナ伯爵領を獲得しその世襲権も与えられた。なお、ボッロメオ家は美術振興にも熱心であり、ミラノ市内のボッロメオ館は、美しいフレスコ画で装飾されていた。

写真Oタロットカードに興ずる姿を描く、ミラノ・ボッロメオ館のフレスコ画

もう一つは、フィリッポマリアの要望で、実現したフィレンツエ絹織物製造者ピエロ・ディ・バルトロのミラノへの招聘だ。ミラノでは経済力向上で絹製品に対するニーズが増大していたが絹織物工業に出遅れており、供給はヴェネツイアやルッカからの輸入に頼っていた。1442年1月1日のフィリッポマリアの政令では、「ミラノに絹織物製造業を導入することを強く願い、ミラノ人がその知識と技術を学習できるようにするため」と明記している。そのため、技術実践のため2年間の独占権、10年間にわたる税務負担免除、公国負担の月給そして、本人および同伴家族、さらにはスタッフ全員に対し「ミラノ市民権」を譲与した。                                 

●灌漑網の発達と先進的農業経営
ミラノやロンバルディアの繁栄は、都市によってのみもたされたものではない。農村部を舞台とした14,15世紀の活発な土地改良や農業改善の成果でもあり、特に、低地平原部の灌漑網発達による牧草飼料の人口栽培の急速な拡大が原動力となった。これら牧草飼料の需要は、商人が使うラバや富裕市民の使う馬などの都市需要、軍事用馬飼料など軍事需要にも加速され拡大し、さらには牛の大量飼育成功に結び付き農業生産性は飛躍的に向上した。このように灌漑農業への移行はい生産性と利益を保証したが、灌漑用水路の採掘・補修は莫大な投資や大規模な農場経営を必要としたため、都市部で交易や製造業、金融業などで得た利益を農業に投資し、企業家精神を農業に持ち込んだ革新的な担い手の存在が支えていた。

第二部 ミラノ大聖堂の誕生
1.大聖堂の着工

ミラノ中心部に燦然と輝く大聖堂。ドゥオーモが現在の形で完成したのは19世紀のこと。実に数百年続くことになる「ミラノ大聖堂」建設事業の始まりは1386年のことであった。

写真上P聖堂内、大支柱がそびえる壮大な身廊  

それは、この場所にあった二つのカテドラルが老朽化したため、時のミラノ大司教が、その再建事業を発起し、信者や市民から強い賛意を得て聖堂再建を1386年5月12日に発令したことにはじまる。その時点では、ロンバルディア伝統の赤レンガを用いた建造物を想定していたようだ。

1386年5月といえば、ジャンガレアッツオがミラノの権力を自らの手中に収めてわずか1年後のことで、彼自身は政治体制確立に専念しており、カテドラル再建事業に直接介入した形跡はない。したがって、ドゥオーモ建設発起人はジャンガレアッツオとはいえないが、このプロジェクトを自らの政治的野望を実現するまたとないチャンスととらえ、建設の方向性を定め、その実現を助成促進する施策を積極的に推進したのは、ジャンガレアッツオ自身である。

野望とは、当時イタリア最大のフィレンツエ大聖堂だけではなく、ヨーロッパ各地に競うように建立されていたゴシック様式大聖堂を、規模でも壮麗な美しさでも超える大聖堂をミラノに建てることで、ヨーロッパ強国や宮廷の仲間入りをすることであり、ヴィスコンティ家の霊廟としたい狙いもあった。同時に、ベルナボ排斥後1年、まだ揺れ動く人心を、ドウオーモ建立大事業を自ら促進することで、求心力を高めるまたとない機会といみなしたのだろう。

そのため、ジャンガレアッツオは矢継ぎ早に重要な政令を発布した。まず、1386年10月12日、大司教の再建事業にあらゆる支援を与えることを表明し、ミラノ市内および周辺地で建設のための基金集めを許可・奨励した。同10月16日には、すでに作業を始めていた大聖堂建設の運営組織「ファッブリカ」の組織規則を公認した。そして、同10月24日には、大聖堂で用いる素材として自らの領地の「大理石」の無料使用権を寄贈、翌年、1388年2月13日には、大理石など建設素材運搬に関する関税や通行税などあらゆる免税措置を決めた。このようにしてドウオーモ建設にとって必要な建築素材の調達、輸送、運営母体、資金調達支援という枠組みを整備したジャンガレアッツオの構想力と政治手腕は実に見事といわざるをえない。都市のンボルとしてその栄光を目に見える形でアピールするこの大事業の持つ政治的影響力を本能的に熟知していたのだろう。

ミラノ市民側も、どこよりも美しく壮大なドゥオーモ建設の構想を、大きな喜びと熱情で受け止めた。大聖堂はどの都市においてもその都市の威信をかけた象徴的建築物であり、それは宗教的な熱意のみならず、都市に対する誇りや帰属意識の発露であり、それは市民を一体化させるものでもあった。  

●「ファッブリカ」の役割
上記したように大事業の運営管理をする組織として「ファッブリカFabbrica」が創建される。正式には「ミラノのカテドラルの教会財産管理委員会」という。物資や人材の確保、資金の調達や運用といった運用面を担い、事業全体を管理する団体であり、建設計画全体の策定はもちろん、設計案の選定や美術作品の注文、建築家や親方、職人などの雇用などもファッブリカが行った。

写真上Q「ファッブリカ」看板

組織の上層部には、ジャンガレアッツオ肝入りの幹部が配置されたが、組織の中枢は、ミラノの市民代表者と聖職者4対1の割合で構成される評議員会だった。市民代表者は、ミラノの6つある市門から有力家系出身者でかつ、大商人、銀行家、工房主、法律家など、職務経験や知見を提供できる人物が選出されていた。事業遂行には、財源確保の能力やマネージメント力を必要としており、ビジネスや専門職の実践経験やノウハウをとりいれられる柔軟な組織形態であった。会計帳簿は当時最先端の記帳方法が採用された。評議員は一組4名のグループにわけられ、1週ごとに順番で任務についた。代議員は全員無料奉仕であった。なお、ファッブリカでは、重要案件決定は、ジャンガレアッツオや大司教に諮問し、内部論争の際は、最終決定は君主ジャンガレアッツオの特権とされていた。

●ドウオーモ建設上のモデルとは
ヨーロッパのゴシック様式の大聖堂の建設という当初の目標は、実際はどのようなモデルを目指していたのだろうか。 一つにはこの12世紀中頃、パリ近くのサンドニ大聖堂で誕生したイル・デ・フランスが起源の「フランス古典的ゴシック様式」、二つ目は、当時、ストラスブルグやケルンなどライン川沿いやプラハなど神聖ローマ帝国内で建設中のゴシック様式大聖堂、3つ目は、フィレンツエやオルビエートなどイタリア中部で建設中の大規模聖堂、これら3つの流れを参考にできたといえよう。ジャンガレアッツオ側では宮廷ゴシックとも呼ばれる「フランスの古典的ゴシック様式」を夢見ていたようだが、ファッブリカとしては、当時の「最先端」で、信者が使える広大な空間を備え、貴族礼拝堂を配置しないドイツやボヘミアなどの大規模聖堂の様式目指したようだ。

いずれにしても、ドゥオーモ建設開始時においては、大聖堂の最終的形態がどのようになるのか構造面、芸術面でも緻密な案はなかった。そのため、建設進行にともない、数々の課題に直面することになる。

2.建設工事の進行
●初期の工事 人々の熱狂

ミラノには、当時、二つのカテドラル、サンタ・マリア・マッジョーレ(冬のカテドラル)とサンタ・テクラ(夏のカテドラル)があった。このサンタ・マリア・マッジョーレを修復してこの先も使用しつつ、新しいドウオーモを同じ場所に創立することは決して楽な作業ではなかった。

1386年から1387年10月までは、工事の準備段階となった。巨大な大理石の大聖堂を支えるための、土台づくりは大掛かりなものであった。地下6〜7メートル下まで掘られ、掘られたものが片づけられると、そこに基台が設けられた。後陣部分やトリブリオを支える大支柱は、大理石の大きな土台の上に置かれ石により埋められた。この基礎工事の作業には、実に多数の市民が無料で労力奉仕に加わった。ミラノの市門ごとの地域参加もあれば、業種別の職人組合や分野別の商店主ごとの参加もあった。1387年末には、マッジョーレ湖から大理石やサリッツオなど最初の大量の荷が届き、1388年に入ると、地上に建物の壁や支柱を立てる段階となった。    

建設は後陣部分、つまり、聖堂をファサード(正面)から入って一番奥に見える大祭壇などのおかれる部分から始まった。まずは、古い後陣部分が壊されたが身廊とファサードはそのまま維持された。

写真左R聖堂内部の後陣部分      写真右S聖堂後陣と聖具室の外側

最初に完成したのは新しい後陣の北側と南側の聖具室だ。北聖具室扉口は1388年-1389年にかけてジャコモ・ダ・カンピオーネの製作で、ドウオーモ内部の一番古い彫刻に当たり、1390-1391年につくられた南聖具室の大規模な浮彫扉口は聖母マリアに捧げられ、ライン川地方ドイツ人ハンス・フェルナーと弟子たちの作品であり、ともに、ゴシック様式の手の込んだ芸術的に大変高い価値を持つ作品である。

写真上21)南側の聖具室の扉口

そして聖堂内陣、聖職者祈祷席、翼廊、そして「円蓋部分」を支える中央の4つの大支柱、翼廊と身廊の交差する部分の工事が進められていく。なお、工事の期間中、サンタ・マリア・マッジョーレの大祭壇はまったく触れられることなく移動もされなかった。ここがまさに聖堂の核であり、このまわりに、新しい後陣や翼廊が設計され建設されることで、過去と将来の間の継続を保障するものであった。

●大理石をミラノの工事現場まで運ぶ
ジャンガレアッツオの選んだ美しい白・ピンク色の大理石の採石場は、マッジョーレ湖とスイスを結ぶオッソラ渓谷入り口メルゴッツオ村そばのカンドリアにあった。採石場下を流れるトーチェ川からはマッジョーレ湖、ティチーノ川、そしてナヴィーリオ・グランデを経てミラノまで水利で到達という好条件を備えていた。カンドリアにも「ファッブリカ」のもう一つの工事現場が開設された。

新カテドラル建設には、大量の大理石や資材を短期間に最低限のコストで調達する仕組みをつくることが必要であった。そのため、ファッブリカではまず、運河の端を広げ河床を深くするなど水上輸送を容易にする整備を行ったが、当初から最大の難関は、ミラノに到着した大理石を工事現場までどのように運ぶかという点であった。

写真上22)カンドリアからミラノまでの大理石輸送水上ルート

当初は、ミラノまでナヴィーリオ・グランデにより船舶で運ばれてきた貨物はサン・エウストルジョ聖堂船着き場で荷下ろしされ、工事現場までの残り1キロの陸路で牛牽引貨車で人の溢れる市内を運ぶ行程がありここがネックになっていた。そのためファッブリカでは1388年10月、工事現場近くに新たに、「サンステファノ教会の船着き場」を設け、「サン・エウストルジョ聖堂の船着き場」と新船着き場を結ぶ水路を築くことを決めた。一部は市内の環状運河を利用し、一部は新水路を築く複雑な水路であったが、工事は2年半足らずで完成した。工事現場から500メートル内の距離の新上陸地のおかげで、陸上運送コストは以前の4分の1と短縮した。

大理石利用が決定されたが、ミラノでは伝統的なレンガ使用が継承されていて石の加工は経験がなかったた。そのため、そのためコモ湖畔現在のスイス国境近く、レッコ近辺の集落から石加工の専門家である多数の職人が招聘された。15世紀はじめまで、通常、200名あるいは300名以上の石工が働いた。                 

●資金確保に万策を尽くす
ファッブリカの最も大切な任務の一つは、建設上の決定・運営に加えて建設資金の入手であった。ファッブリカの直接歳入は、故人の遺言状により寄付された家や商店、土地などの不動産からの定期収入である。しかし、資金の主要源泉は、公国内のほぼ全都市と小集落に対し義務付けられた寄付金に加えて、ミラノや周辺部の教会に置かれた寄付箱に集まった施しなど信者からの大小の寄付であった。小規模な寄付も同様に非常に重要であり、建設中の大聖堂の大祭壇脇には募金用カゴが置かれ、現金だけでなく貴金属、衣服や小物、食糧までの寄付がされた。ファッブリカ側では、この募金用カゴ管理のため、24時間体制二交替の警備員を配置した。現物寄付は特設直売所で販売あるいは競売で直ちに現金化された。現在にまで伝わるファッブリカの帳簿には、建設開始以来ファッブリカに寄せられたすべての寄付・寄贈が詳細に記載されている。

●大成功したジュビレオでの資金集め
工事の進捗にともない、建設費用が驚くほど増大していたファッブリカでは、資金集めが急務となり、1390年、ジャンガレアッツオ、ファッブリカとミラノ教会の三者間の協力で、莫大な資金集めのオペレーショを実現させる。1390年、教皇ボニファチオ9世が、1390年のジュビレオを公表し、ローマに出むかなくても、地元教会を訪れた者に対しても巡礼費用に等しい金額を寄付することで、「全贖宥」を受けられる仕組みを明らかにした。これに目を付けたファッブリカの要請を受けたジャンガレアッツオは、ファッブリカや人民からの支持を集めると同時にローマ教皇との対話の糸口を開く上でもよい機会とみなし、すぐに行動をおこした。1390年4月16日、彼の親書を持った特使をローマまで直接出向いて教皇に届けさせたのだ。この中でジャンガレアッツオは「我が都市ミラノでは、聖母マリアに捧げる巨大で立派で素晴らしい寺院を建設している」とし、古くからの4つの教会(聖アンブロージョ聖堂、サン・ナツアーロ聖堂、シンプリチャーノ聖堂、サンロレンツオ聖堂)とともに、この新カテドラルをジュビレオの対象となし、贖宥を受け入れられる権利を与えてくれるよう」請願したのである。

要請は受理され、信者たちがミラノの教会を訪問し、ローマへの巡礼費用分を寄付すると、その三分の二はファッブリカのもとに残り、三分の一は、ローマ教会に支払うという取り決めが交わされた。これにより、通常の年間予算の1.5倍に達する寄付がファッブリカに集まった。

●マルコ・カレッリの遺言による莫大な寄贈
遺言などの寄付がファッブリカにとって大きな収入であったが、中でも、1394年に死去した大商人マルコ・カレッリが遺言で莫大な財産をファッブリカに寄贈したことは広く知られている。彼は生前も大聖堂建設当初から何度も献金を行い、ファッブリカ評議員を務めた時期もある。彼の名誉を讃える「カレッリの尖塔」は、ジョルジョ・ソラーリが1404年に製作したもので、135本ある尖塔で一番古いものである。

写真上23)「カレッリの尖塔」 (オリジナルはミラノ大聖堂博物館)

3.構造上の大問題と議論
●フランスやドイツ人技師の招聘

建設が始まって建物土台の整備や後陣や翼廊部分の支柱が建てられ始めると、平面図とおおよその企画で出発した新しいカテドラルは、ここにきて建物全体のプロポーションや構造を定義せずには前に進めない段階となった。特に、聖堂建設上最も主要な構造要素「大支柱」の高さや安定性、耐久性、芸術性を総合的に検討することが必要となった。心配したジャンガレアッツオからの積極的な関与もあり、ゴシック様式建築経験で名声あるヨーロッパの専門家が招聘されたが、それにともない、ファッブリカ側とこれらフランスやドイツの巨匠たちとの激しい戦いが始まった。

1389年7月6日、フランス人技師長ニコラス・デ・ボンナヴェンツーレが採用された。当初はその仕事ぶりは評価され1390年3月には御陣の三つの大窓の設計もファッブリカから評価された。しかしその後、1390年の総会では、巨大な外被の重みを支えることになる聖堂中心部の4つの大支柱のサイズや形態をめぐって大議論となり、ファッブリカと関係が悪化し、1390年7月にはボンナヴェンツーレは解雇された。1391年2月には、かわって、ドイツの重要なゴシック様式聖堂を建設中ドイツ人技師が招かれるが、彼も、ミラノのすでに建設されていた壁や支柱に対し激しい批判を行った。ファッブリカは彼も解雇した。

●数学者ストルナロコにより、聖堂の高さ決定
1391年には、工事は壁面や支柱を積み上げて順調に進み、建物全体の高さの決定をもはや延期不可能な地点にまで達した。現代人の眼からみれば、建物の「高さ」も決めずに建設を着手するのは何とも不思議な現象だが、この時代においては珍しいことではなかったようだ。「高さ」は当初のおおまかな設計図には綿密には示されておらず、すでに述べたようにディテールまで確認した設計図や総括的責任を持つ設計者などはいないままに、仕事が進んでいたのである。

そのため、1391年9月ピアチェンツアの数学者で幾何学の権威ガブリエレ・ストルナロコが招聘され意見をもとめられた。彼は現場を精査した上で、聖堂の幅と高さ(中央身廊部分)の全体プロポーションを決める際に、聖堂の幅を底辺とした正三角形をベースとし「正三角形の高さ」=「建物の高さ」とするソルーションを提案した。正三角形底辺とさの関係はほぼ0.88となるため、底辺が、現在のドウオーモの幅、57.6メートルとすると、中央身廊の高さは48.5メートル以上となる。これは当時のヨーロッパ大聖堂で最高の高さを誇るフランスのボーヴェ聖堂も超える高さとなるのであった。

ストルナロコ理論はそれまで感性や本能で描いてきた聖堂構造のイメージに対し、幾何学的な正当性をあたえることになり、大聖堂建設の上で決定的に重要なものとなり、様式的な一貫性だけでなく、建築的・数学的に厳正な公認を得たことにつながった。ストルナルコの理論がファッブリカでは承認され、その設計にもとづき木製模型もつくられ工事も進捗した。これはファッブリカの方針を正当化する根拠を与え、その後のヨーロッパ各国建築家からの批判に対抗するベースとなるものであった。

●ドイツ人技師から相次ぐ批判
しかしその直後1391年12月11日、技師に採用された、ヨーロッパ有数の建築家家系ドイツ人技師を招いたが彼は、ストルナルコのモデルを批判し、ミラノの技師たちは技術的知識不足と罵倒し、さらに構造の安定性にも疑問を投げかけ、ほぼ全体を取り壊さなければならないと強調した。
評議員たちは、これに対し所見を書面で提出するよう依頼し、他方では、彼の中傷攻撃に対抗する理論武装を行い、1392年5月1日、全体会議には技師勢全員が参加した。討議議題は、この時点までに実現された建造物全体についてサイズや高さ、審美面の検討、建造物の安定性や耐久性などあらゆるものにわたった。ドイツ人技師からの全面攻撃に対し、全力をかけて抵抗したイタリア人技師勢の決然とした姿勢を前に、ドイツ側を擁護するジャンガレアッツオからの介入もあったものの、ファッブリカ首脳部は1392年5月29日、解雇した。1394年10月、別のドイツ人技師がミラノに来た際も、建設物に対し多くの問題点をみつけ、ジャンガレアッツオに建造部分の解体を直訴した。最終的には彼も去っていった。

●大聖堂の空間を特徴づける支柱の柱頭部分が決定
このように給で招聘した名声あるドイツやフランスの技師たちが、数ケ月で解雇される状況が続いた後は、イタリア人の巨匠ジャコモ・ダ・カンピオーネ(写真21)とジョヴァンニーノ・ディ・グラッシが建設事業を率いることになり、1395年からほぼ5年間、落ち着いたバランスのとれた仕事が進む時期をむかえる。

写真上24)25)ジョヴァンニーノ・ディ・グラッシの設計した柱頭

この時期、身廊空間の主役ともなる大支柱の柱頭の様式と装飾性を決定することが最大課題となっていた。度重なる議論の後、1396年4月、ジョヴァンニーノ・ディ・グラッシの設計した荘厳で革新的なプランが採用された。6メートルもの高さがある柱頭で、飾り天蓋のあるニッチに聖人や殉教者像が並ぶ堂々たるフォルマである。それでいて支柱内部から浮き出たような軽やかさも有し、ミラノ大聖堂内部でのみみられる、オリジナル性豊かな造形美を構成している。なお、グラッシは、ジャンガレアッツオの宮廷でも重宝された優れた画家であり、前述した細密画豊かな「ヴイスコンティ家 時祷書」の作者でもある。(写真G)

●パリの技師との大論争
1398年、二人のイタリア人巨匠が相前後して逝去したため、1399年4月、国際的名声を持つパリの建築家 ジェーン・ミニョJean Mignotが招聘された。ミニョは当初から対立的な姿勢を露わにしすべてを批判した。この建物は崩壊の危険があることを最初にジャンガレアッツオに直言し、その後ファッブリカに伝えたため、評議員たちは怒りミニョンその評価理由を文書で提出るよう要請した。ミニョは1400年1月1日、すべてを批判した報告書提出しファッブリカの技師は新聖堂を設計する能力のない石工の親方だと非難した。ジャンガレアッツオはフランス人建築家の評価を高く評価する傾向があったため、ジャンガレアッツオとファッブリカの間にも大きな緊張関係が生まれた。建造物を取り壊せというミニョの提案は、ファッブリカのみならず、大司教、市民すべてを巻き込む大変な議論となった。若い世代の技師がそのプロ意識を精一杯ふるってフランス人技師の主張に反駁した。

当時は大建築物の崩壊は決して稀なことではなく、ファッブリカ側もミニョッの警告を無視したわけではない。専門家数名にさらなる検証を依頼したが、プラハ、フランスなどの技師の評価もミニョに近く、公爵にもそれを伝えた。ファッブリカ技師群と、ミニョの衝突は激しさを増し、1401年10月22日、ファッブリカ側は建設中の小さなミスを原因にミニョの解雇を決めた。

これを契機に公爵の態度に変化がみられた。文書で「建設に関して発生した不一致を、最上の方法で解決するための彼自身の介入を正当化し、ドウオーモのために外国から著名芸術家や技術者を用いることのメリットを確認しつつも、臣下の人民たちが、その献身とその協力をしやすいように、人民の要望に全面的に任せる」とし、ファッブリカ事案には今後介入しないことを表明したのだ。

4.論争や試練を超えて
●ミラノ大聖堂ならではの「ゴシック様式」への模索

このように、1401年のミニョの敗北により、ドウオーモの支柱の柱頭やアーチや天井などの構造的・芸術的特色はこの時期に確定した。

しかし、ミニョとの論戦は、ファッブリカ側にとっても非常に重要な節目となった。ミニョ側のヨーロッパでの事例や経験のみをもとにし、異なる伝統や建設工法や美意識を頭から拒否する態度には徹底抗戦したが、同時に建造物が崩壊のリスクがあるという劇的な評価に対応するために、オリジナルで有効性の高い、建造物の安定性の概念を求めて、あらゆる活力と能力を発揮していくのである。たとえば、イタリア技師たちの尽力の結果の一つの事例としては、従来のゴシック聖堂にある外部の仰々しい「パットレス」や枠組みを使わず、華麗な段違いアーチ(アルコ・ランパンテ)を用いているのが、ミラノ大聖堂ならではのオリジナルなソルーションの一例とされている。すなわち、ヨーロッパのゴシック様式が、イタリア式、ロンバルディア式、ミラノ式のゴシック様式の解釈に伴ってすすめられていくことになり、ミラノのドウオーモの様式的特色は、他にはない唯一独自なものとなっていくのだ。

●後陣外側の中央大窓とヴイスコンティ
ところで、ジャンガレアッツオは当初、大聖堂にヴイスコンティ家の霊廟を置くことを熱望し、父ガレアッツオ2世の記念礼拝堂を聖堂身廊脇に設けることを望んでいた。が、ファッブリカ側は身廊全体を広い自由空間のままとするドイツ大聖堂の様式を採用することで彼の要求を婉曲に退けた。次にジャンガレアツオ側は、後陣の聖職者祈祷席裏側に、父親の記念碑設置案をファッブリカ側に提案し彫刻家も指名した。しかし、ファッブリカ側は行動には移さなかった。そのため、1396年、ジャンガレッツオは自らがあらゆる決定権をもち絶対的な行動の自由を持つ、「チェルトーザ・ディ・パヴィア」をヴィスコンティ家の菩提寺として建設することになる。

両者の最終的妥協案として決まったのが、後陣の外側にある3つの大きな窓のうち、中央の大窓に、ジャンガレアッツオの個人的シンボル「正義の太陽」などの装飾を挿入することであった。ドウオーモ外側の後陣エリアに、ヴイスコンティ家のシンボルを入れることで、公爵の要望では、通行人や信者に対し、地上世界と神の世界との間の仲介役としての公爵の役割を目に見える印で見えるようにするとのことであった。

写真上26)ジャンガレアッツオ個人的シンボル「正義の太陽」のある後陣外側の大窓

中央の大窓実現には長く複雑な経由をたどり、最終的には1402年はじめ、画家フィリッポ・ダ・メレニャーノがデザインし公爵の承認した装飾部分の制作に入った。しかし、実施段階で、かなりの修正が行われ、必ずしもジャンガレアッツオやその家紋との関係を持たずとも、一般的な宗教的シンボルとしても読み取れる形で実現されていた。いずれにしても、まさにこの窓の装飾制作が進んでいたところで、完成を待たずに、ジャンガレアッツオは逝去することになるのだ。

●新しい大聖堂の聖別
1402年9月3日、ジャンガレアッツオの逝去後の混乱の影響で、ドウオーモ建設のスピードは大幅に弱まることになる。建設資金も不足しこの時期、大きな工事は実施されなかったが、ファッブリカの活動が休止したわけではなく、聖堂内部の彫像や装飾などの制作が継続されていた。現在、大聖堂博物館に所蔵されているベルトラミーノ・デ・ズッティス作「永遠の父Padre Eterno」も、この時期(1416-1426年)の作品である。

写真上27)「永遠の父」 ベルトラミーノ・デ・ズッティス作  (ミラノ大聖堂博物館)  

1417年11月11日、ドイツのコスタンツアで開催された公会議で、ローマとアヴィニオンの大シスマ(分裂)が終了した。新教皇マルティーノ5世は1418年春イタリアに戻る決意をし、10月5日、教皇一行はパヴィアに到着した。当初の予定ではその後マントヴァに向かうことになっていた。

 写真上28)「教皇マルティーノ5世の記念碑」  (ミラノ大聖堂)

ドウオーモ建設は様々な経済的困難にもかかわらず、建設は少しずつ進み、サンタ・マリア・マッジョーレの後陣部分は完全に壊され、今や新聖堂の後陣、翼廊と主要身廊など大切な核となる部分は準備ができていた。ファッブリカでは、教皇にミラノを素通りされることを避けるため、公爵フィリッポマリアと教皇自身に積極的な外交攻勢にとりかかる中で、教皇をミラノに招き、新しい大聖堂を聖別してもらうアイデアが生まれた。最終的にマルティーノ5世はミラノ側の申し出を受け、10月12日ミラノに入り、10月16日、教皇は聖堂の大祭壇を聖別し荘厳なミサを行った。ミラノの民衆の喜びと満足は非常に大きなものだった。こうして、ミラノでは、サンタ・マリア・マッジョーレの時代は終わり、新しい大聖堂の時代が始まることになる。この式典を記念して、ファッブリカでは、「教皇マルティーノ5世の記念碑」をジャコピーノ・ダ・トラダーテに委嘱し(1424年)、現在もドウオーモのレトロコロに設置されている。

現在も、「ファッブリカ」によるミラノ大聖堂の修復や補修の作業は続いており、カンドリア大理石採堀場の大理石が引き続き使用されている。

写真上左29)ミラノ大聖堂
写真上右30)現在も続く修復・補修作業(1774年に実現されたマドンニーナ像)

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前号と今号で約170年間にわたるヴイスコンティ家発展の推移を見てきた。何世代にもわたり「シニョーレ」を継承することは決して容易ではなく、ミラノを追放されたり、権力を奪われ解体などの危機に見舞われながらも、外交手段、経済力、軍事力、さらに婚姻政策とすべてを駆使し、権力へ執着する姿勢には圧倒される。ライバルの毒殺や暗殺はおろか、ファミリ―内闘争でも解決手段を選ばない。しかし、ヴイスコンティ家一族のあくなき権力欲と領土拡大政策のおかげで、強国や有力家門の競いあう当時のヨーロッパ世界で、ロンバルディア地方を核とする「ミラノ」領域国家が、繁栄する豊かな国家としてそのアイデンティティを確立したことも事実である。

ミラノ大聖堂誕生時の歴史からも、当時のミラノの活力が伝わってくる。ヨーロッパ最大規模で最も美しい大聖堂づくりを願望する「シニョーレ」の呼びかけに応え、自らの誇りや帰属意識をかけてあらゆるエネルギーを注ぎ挑戦する「ファッブリカ」を中心としたミラノの人々。ミラノ大聖堂の建設事業は、地元経済に活気を与えるだけでなく、イタリアやヨーロッパ各地からの技術者や専門職人が集まり、異なる考え方や技法、感性に対立しながらも、人と知恵とエネルギーが交流し対比しあう場ともなっていった。

それにしても、全体的設計図も新しい様式の建設技術上の経験も備えていないにもかかわらず、「ヨーロッパNO1の大聖堂」を目指すファッブリカ側の姿勢にはハラハラさせられる。が、外国人技師の批判にも、絶対君主ジャンガレアッツオの意向にも「忖度」することなく、課題にとことん取り組み、むしろそれをバネに自ら納得するよりよいソルーションを模索する姿には、感動も覚える。

ミラノの歴史上、政治的、経済的に頂点を極めたジャンガレアッツオの最も勢いのある時期であったからこそ、その後何世紀も続く「ミラノ大聖堂の建設」のアドヴェンチャーを全エネルギーを結集してスタートさせることができたのだろう。そう思うと、ミラノ大聖堂にも、歴史のタイミングの妙を感じてしまう。聖堂後陣の外側を通る時、中央バラ窓にジャンガレアッツオの面影を感じることもある。そしてファッブリカ技師勢が議論を尽くして実現した「大支柱」や見事な「柱頭」の創る空間構成には何度見ても感銘せざるを得ない。  


著者紹介
大島悦子(Oshima Etsuko)

東京外語大イタリア語学科卒。日本オリベッティ広報部、生活科学研究所を経て1990年ミラノ・ボッコーニ大学客員研究員。現在、ジャパン・プラス・イタリア社代表取締役。2000年より「イタリア旅行情報サイト(JITRA)」主宰。イタリア社会・産業・地域事情などの委託調査研究、日伊間ビジネス・文化観光交流事業の企画コーディネートに従事。著書に日経研月報にて「もう一つの市場を創るイタリアのミクロトレンド」連載(日本経済研究所発行)、共著「そこが知りたい観光・都市・環境」(交通新聞社発行)他。

知ってほしい「ミラノの歴史」データ
Dati
■スフォルツェスコ城博物館  Musei del Castello Sforzesco
所在地:Piazza Castello
開館時間:9:00-17:30 月曜休館
入館料: 5ユーロ
https://www.milanocastello.it/

■ミラノ大聖堂  Duomo di Milano
所在地: Piazza del Duomo
開館時間:9:00-19:00
入館料: 5ユーロ
https://www.duomomilano.it/

■ミラノ大聖堂博物館  Museo del Duomo di Milano
所在地: Piazza del Duomo
開館時間:10:00-18:30 
入館料:6ユーロ (大聖堂入館料込み)
https://www.duomomilano.it/ 

■パヴィア城 Castello di Pavia(Musei Civici di Pavia)
所在地: Castello Visconteo、 Viale XI Febbraio 35、 27100 - Pavia
開館時間:月曜、金曜、土曜、日曜: 10.00 - 18.00 
入館料: 5ユーロ (パヴィア城中庭への入場は無料)
https://www.certosadipavia.it/contatti/ 

■モンツア大聖堂博物館 テオドリンダ礼拝堂
Cappella di Teodolinca  Museo e Tesoro del Duomo di Monza

所在地:Piazza Duomo、 20900 Monza (MB)
TEL:039 326383
開館時間:火曜〜土曜 9.00-13.00 14.00-18.00
日曜:14.00- 18.00  月曜休館
入館料:テオドリンダ礼拝堂と鉄の王冠ガイド付き見学  8ユーロ(要予約)
http://www.duomomonza.it 

注:上記の開館時間・入館料金などは変更になる場合があります。訪問にあたっては事前にご確認ください。




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