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15 gennaio 2007

第41回 ヴェネツィア

モーツァルトのイタリア旅行 (10)


牧野 宣彦
モーツァルトの生誕250周年を記念して、父子の辿ったイタリアの街を1年に渡って案内してきましたが、今回が最終回になりました。

●ヴェネツィアへの旅
モーツァルト父子は3回イタリアに来ているが、第1回のイタリア紀行の時だけミラノからヴェネツィアに立ち寄り、後の2回はザルツブルクへ真っ直ぐ帰還している。
1770年7月ロレートへの巡礼を済ませたモーツァルト父子は、7月20日にボローニャに着く。そして約3ヶ月この地に滞在。モーツァルトはマルティーニ師から教えを受け、レオポルトは足の治療につとめた。その後10月18日にミラノに戻り、依頼されていたオペラ「ポントの王ミトリダーテ」の作曲を完成させた。その年の12月26日(水)にこのオペラはミラノ宮廷歌劇場で初演され、大成功を収めた。

1771年1月5日、モーツァルトはヴェローナのアッカデミア・フィラモニカより名誉楽長の称号を授けられ、1月中旬から末にかけて約2週間トリノへ旅行。2月4日(月)にミラノを出発し、カノーニカCanonica、ブレシアBrescia、ヴェローナVerona、ヴィチェンツァVicenza、パドヴァPadovaを経て、1771年2月11日、ヴェネツィアへ着いた。レオポルトの覚書には「宿泊、リーオ・サン・ファンティーノのバルカローリ橋の側カヴァレッティ邸にて」と記されているものの、サン・ファンティーノ教区にカヴァレッティ邸はなく、チェゼレッティCeseletti邸であった。バルカローリとは船乗りを意味し、現在のこの橋はバルカローリ・クオリドーロ橋Ponte dei Barcaroli Cuoridoroである。クオリドーロとは"金の心"の意で、チェゼレッティ家が付けていた称号である。
ゴンドラが行きかう細い運河にかかる橋の袂の古い茶色の建物に、モーツァルトが1771年2月11日から3月12日まで宿泊していた事を書いた碑がある。丁度フェニーチェ劇場Teatro Feniceの裏にあたり、サン・マルコ広場Piazza San Marcoにも遠くない。彼らが宿泊したのはヴェネツィアに当時沢山あった歌劇場でも中心的存在だったサン・ベネデット貴族劇場Teatro nobile S.Benedettoの近くであった。この劇場はモーツァルトがヴェネツィアを訪れた3年後の1774年に火事の為に焼失した。そして、その後に建設されたのがフェニーチェ劇場だ。建立されるのは、モーツァルトが亡くなった1791年の翌年1792年の事で、その時上演されたのは、モーツァルトがナポリで知り合った作曲家パイジエッロGiovanni Paisielloの「アグリジェントの大競技I Giuochi d'Agrigento」だった。

ここで当時のヴェネツィアのオペラの事情を少し述べてみたい。
ヴェネツィア共和国の国力が最盛期に達するのは14世紀だが、芸術、音楽などの文化はそれより遅れて16世紀から18世紀にかけて成熟し、最盛期を迎える。モーツァルトが訪れた18世紀後半にはオペラの中心はナポリに移動していたが、18世紀前半の1700年頃にはヴェネツィア市内には16の公開オペラ劇場が存在していたと言われる。
1597年フィレンツェで誕生したオペラは、モンテヴェルディC.Monteverdiがマントヴァからヴェネツィアに来てサン・マルコ修道院の音楽楽長に就任してから絶頂期を迎える。1637年に世界最初の公開オペラハウスサン・カッシアーノTeatro San Cassianoが開場し、モンテヴェルディの「ユリッセの帰還IL Ritorno d'Ulisse in Patria」がこの劇場で初演された。その後ヴェネツィアには、モンテヴェルディの「ポッペアの戴冠L'Incoronazione di Poppea」を上演したサン・ジョヴァン二・エ・パウロ劇場SS.Giovanni e Paolo、19世紀に若いロッシーニG.Rossiniを招請し、彼の「結婚手形La Cambiale di Matrimonio」「幸せな間違いL'Inganno Felice」などを初演したサン・モイゼ劇場S.Moise、豪華絢爛の舞台美術と機械仕掛けで人気があったテアトロ・ノヴィッシモTeatro Novissimo、ヘンデルの「アグリピーナAgrippina」を上演したサン・ジョヴァンニ・グリソストモS.Giovanni Grisostomoなど多くの劇場が活発な活動をしていた。ナポリでは数回しかオペラを見なかったモーツァルトもこのヴェネツィアでは多くのオペラに出かけている。ジョヴァンニ・バッティスタ・ボルギGiovanni Battista Borghi、アントー二オ・ボロー二Antonio Boloniなどの作品を聴いたと思われる。
モーツァルトが訪れてから26年後の1797年、ナポレオンの侵入によってヴェネツィア共和国は滅亡し、経済も衰退に向かっていったが、過去10世紀に渡る富の蓄積は、ヴェネツィアを史上空前の劇場都市に変貌させた。

写真左下:サン・マルコ寺院
右下:フェニーチェ劇場

●ヴェネツィアからの手紙
「ひどい天候と驚異的な風のために、やっと謝肉祭の月曜日早朝にヴェネツィアに着き、午後にはヴィダー氏に会うべく訪問しました。氏の奥さんがオペラに同伴してくれました。それに謝肉祭の火曜日には、お昼を彼の所で取り、オペラに行きましたが、2時に始まり、夜7時には寝ました。それから夕食を彼の所で食べて、ドイツ時間で夜11時から12時にかけて、私達はサン・マルコ広場の仮装舞踏会に出かけたのです。」1771年2月13日レオポルトより妻へ ヴェネツィアにて。

「我々は、早々から既にたっぷりゴンドラに乗りました。はじめの数日は眠っているベッドごと揺れ、まるでゴンドラにずっといるようでした。」1771年2月20日レオポルトより妻へ ヴェネツィアにて。

「私達は幸いに元気で、いつもあちこちに招待されています。だから貴族の人々のゴンドラが私達の家の前に始終来ており、毎日大運河を通っています。私達は、私が当初考えていたより8日遅れてヴェネツィアを発つでしょう。そして2、3日ヴィチェンツァに留まらねばなりません。コルナーロ家出身のそこの司教が、彼の所で食事をするか、または、2、3日の滞在なしでは、旅を続けさせてくれないのです。その後ヴェローナでも3日は留まるであろうし、恐らく24時間のおまけがあるかもしれません。」1771年3月1日レオポルトより妻へ ヴェネツィアにて。

「昨日は素晴らしい演奏会でしたが、この数日、費用を誰が負担するのか分からず、我々なのかとひどく悩んでいます。そのため月曜日には発てません。この日はしかしヴェネツィアを旅立つと決めていた日でもあります。かといって、それでザルツブルクの復活祭頃に間に合わないと、気遣いする事はありません。ここで多く過ごした分は他の土地で取り戻します。少なくするか、殆どとどまらずするかして。私達は幸い元気です。ただ残念というか、とても惜しいのは、ここに長く滞在できない事です。というのは、全ての貴族の人々と確かな親交を結んだからです。全ての地区で会合や宴会、つまり、あらゆる機会に大そうな栄誉を重ねたので、秘書を通してゴンドラを家に迎え、家に同伴させるばかりでなく、貴族自ら一緒に乗って行くのです。それも第一級の名家、コルネッロ、グリマー二、モチェニーゴ、ドルフィン、ヴァリエールなど。・・・・」1771年3月6日レオポルトより妻へ ヴェネツィアにて。

「最愛の姉上へ。僕が元気な事は、もうパパから聞いて知っているでしょう。書く事が何もないのです。僕のハンドキスをママに。ごきげんよう。」1771年2月13日 モーツァルトより姉ナンネルへ ヴェネツィアにて。

モーツァルト父子の手紙を幾つか紹介したが、この手紙から彼らがヴェネツィアでどんな生活をしていたかが、ある程度想像できるだろう。ヴェネツィアでの父子の滞在記録は、彼らの手紙や旅行覚書の他には殆ど資料が存在しない。モーツァルトの研究者泣かせの土地だと言われる。まず第一に、ヴェネツィアに入国する時に記入する当時の市役所の書類やドキュメントの中に父子の名がない。これはレオポルトの持参した紹介状に、官憲に強い力を持つ人からの特別な配慮があったのではないかといわれている。

ヴェネツィアで父子はレオポルトの手紙にもあるように3月5日には恐らくマッフェイMaffei家で大きな演奏会を開催している。その他にも幾つかのコンサートが開催された可能性がある。
また、1771年2月21日(水)、ヴェネツィアの名門貴族カテリーナ・コルナーロに招待される。24日(日)にはヴェネツィア総大司教ジョヴァン二・ブラガディーノGiovanni Bragadinoに招待され昼食を一緒にする。25日(月)はドルフィン邸Giovanni Antonio Dorfinに、というように、毎日のように貴族から招待された。
3月1日はヴィダー家へ。このヴィダー家はザルツブルクの家主の紹介であったが、モーツァルト父子のヴェネツィア滞在に最大の援助を与えた人たちで、貴族の招待がない時はいつも一緒に食事をした。父子がヴェネツィアを離れる時は、ヴィダー家の人たちは夫妻と娘2人が彼らをパドヴァまで見送り、しかも、レオポルトの妻マリア・アンナにまでその報告書を送っている。

3月3日(日)、かってのウィーン宮廷劇場監督、当時のヴェネツィア駐在帝国大使ヤコポ・ドゥラッツォ伯爵Jacopo Durazzoに招待され、3月4日にはマッフェイ家で1773年謝肉祭にミラノの宮廷劇場で上演されるオペラの作曲依頼にサインする。これが「ルチオ・シッラ」であった。3月11日、再びカテリーナ・コルナーロに招かれ、モーツァルトは美しい煙草入れと高価なニ揃いのカフスをもらう。

●帰国の途へ
3月12日、特別に船ブルキエッロBurchielloをチャーターし、ブレンタ河を遡りパドヴァに向かう。ブレンタ河の両岸にはヴェネツィアの貴族たちが建てた美しいヴィラが多く見られる。現在でもブルキエッロはパドヴァからヴェネツィアにかけて運行しており、これらのヴィラを訪ねながらブレンタ河を下るツアーが盛んである。当時はヴェネツィアとパドヴァを結ぶ唯一の交通機関がブレンタ河の船だった。同行したのは、前述したヴィダー家の人々、ザルツブルク出発の際にウィーンで知り合った作曲家ハッセHasseから紹介状をもらっていたオルテス師などだった。

モーツァルト父子はその日パドヴァで、貴族ペーザロPesaroの宮殿に宿泊。翌3月13日には、パドヴァのサンタントニオ修道院の楽長であり、高名なオルガ二ストだったヴァロッティ師F.Antonio Valottiを訪問し、ミュンヘンのバイエルン選帝侯宮廷音楽長として仕え、パドヴァで教師をしていたジョヴァンニ・フェランディー二Giovanni Ferrandiniに会い、そこで演奏を披露した。そして、16世紀に建設されたサンタ・ジュスティアーナ教会S.Giustinaでもオルガンを演奏している。
このパドヴァでの短い滞在の間にモーツァルトは彼の生涯で唯一のものとなるオラトリオの作曲をドン・ジュゼッペ・ヒメネス公Don Giuseppe Ximenesから依頼される。これがその年の夏にザルツブルクで完成する「救われたベトゥリアBetulia liberato K118」であるが、結局パドヴァでは上演されなかった。
3月14日同行してきたヴィダー家の人々、オルテス師と別れ、ヴィチェンツァに着き、そこでコルナーロ司教Marco Giuseppe Cornaroの客として2泊する。この街には16世紀に活躍した建築家パッラーディオAndrea Palladioの建築が至る所に点在し、現在世界遺産になっている。恐らくモーツァルト父子もパッラーディオの最高傑作であるオリンピコ劇場Teatro Olympicoを訪問したであろう。

3月16日ヴェローナに着き、以前の滞在で肖像画を描いてもらった友人のルジャーティPietro Lugiati邸に滞在し、演奏をする。ここでミラノより「ザルツブルクで受け取る事になるウィーンからの書状」は「息子に不朽の名誉となる」(3月18日付けレオポルトの手紙)報せを受け取る。それがミラノの編で述べた1771年10月、ロンバルジア大公国のミラノで行われるフェルディナンド大公とモデナの大公女マリアとの結婚の祝典劇の作曲依頼の報せだった。
3月20日(水)ロヴェレートからブレンナー峠を越え、3月25日(木)夜に大雪、強風の中インスブルクに到着。モーツァルトはイタリアの各地で歓迎され、勲章も受章し、アッカデミアの会員にもなり、多くの名誉に包まれて帰国の途に着いた。1771年3月28日(木)、モーツァルト父子の足かけ3年にわたるイタリア紀行のうち、最初の15ヶ月半の旅はこの様にして終わった。


モーツァルトクイズ
3名様に 図説「モーツァルト」をプレゼント

一年間モーツァルトのイタリア紀行をお読みいただき有難うございました。
自信のある方は、次のモーツァルトクイズ10問に挑戦してください。全問正解者の中から抽選で3名様に、後藤真理子著 図説「モーツァルト」(河出書房新社)をプレゼントします。

 1. モーツアルトは、何回イタリアに来たか?
 2. モーツァルトを一番最初に大歓迎したイタリアの町は?
 3. モーツァルトがドン・ジョヴァン二に書いたワインの名前は?
 4. モーツァルトがボローニャで教えを受けた音楽家は?
 5. フィレンツェでモーツァルトの会った英国の天才バイオリン二ストは?
 6. グレゴリオ・アッレグリーの秘曲「ミゼーレ」の演奏された礼拝堂は?
 7. モーツァルトがナポリで聞いたオペラ「見捨てられたアルミーダ」を作曲した人は?
 8. モーツァルトがイタリアに来て最初に作曲したのは「弦楽四重奏曲ト長調K80」だが、
     この曲が作曲された町の名前は?
 9. モーツァルトの作曲したオペラに「ティト帝の慈悲」という作品があるが、このオペラの
     舞台となった町は?
 10.モーツァルトの最大傑作のオペラは「フィガロの結婚」だが、同じボーマルシェの原作で
     ロッシーニの書いたオペラの名前は?

少し難しいかも知れませんが、モーツァルト紀行を読まれた人はわかるはずですので、奮ってご応募下さい。

■応募方法
●メールの件名:モーツァルトクイズ
●メールの内容:
1)1〜10までの質問にお答えください。
2)あなたのプロフィール
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牧野宣彦さん連載記事の載った
月刊サッカー専門誌『CALCIO2002』

イタリアサッカー界の話題が満載の月刊サッカー専門誌『CALCIO2002』(カルチョ2002)に、現在、牧野宣彦さんが連載記事をご執筆中です。

牧野宣彦氏より
12日に発売となった2月号では、テノールが逃げ出したり、何かと話題の多かった2006年から2007年のシーズンの初日のオペラ「アイーダ」について書いています。是非お読み下さい。

著者プロフィール

牧野宣彦(まきののぶひこ)


早大卒。1974年旅行会社にて日本初のニューイヤー・スカラ座オペラツァーを企画。その後コンピュータ会社を経て、1998年によりイタリア、ボローニャ在住。フリーのトラベルライターとして、旅行、音楽、グルメ関係の執筆、写真撮影をする。 2003年オーストリアのエリザベート皇妃、2004年ゲーテのイタリア紀行、2005年モーツァルトのイタリア旅行とオーストリア、2006年はイタリアの世界遺産など毎年テーマを決めて写真撮影を行っている。著書「イタリアの歴史的ホテル・レストラン・カフェ」(三修社)、「イタリアオペラツァー」(あんず堂)「イタリアのベストレストラン」(透土社)「音楽と美術の旅、イタリア」(共著、音楽之友社)などがある。





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