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読み物・エッセイ  イタリア 音楽の旅
 
15 gennaio 2006

第32回 ザルツブルクからブレンナー峠へ

モーツァルトのイタリア旅行 (1)

牧野 宣彦



☆マイアベーアのオペラ「エジプトの十字軍」はここをクリック!

今年は音楽史上最大の天才といわれるW.A.モーツァルト W.A.Mozartが、オーストリアのザルツブルクに1756年1月27日に生まれて250周年になる。これを機にウィーン、ザルツブルクなどではモーツァルトの作品が数多く上演予定になっている。モーツァルトがオペラ作曲家として成功するには、彼が3度に渡ってイタリア旅行した事が多大な力になった。イタリアの劇場では通常モーツァルトのオペラが上演される回数はそれ程多くないが、今年はナポリ、ミラノ、ヴェネツィア、ヴェローナなど各地でモーツァルトのオペラの上演がある。
今年度は、夏の音楽祭特集以外のイタリア音楽の旅は10回にわたってモーツァルトのイタリア旅行について御案内する予定です。

●イタリア旅行出発までのモーツァルト
モーツァルトは1756年1月27日にザルツブルクで生まれた。父レオポルドは宮廷楽士で、母はマリア・アンナ・ベルトリン、モーツァルトは7人兄弟の末っ子として生まれ、兄弟で成人したのはモーツァルトと姉のナンネルの2人だけだった。
姉が7歳の時ピアノのレッスンをしていた。モーツァルトはそれを見て、自分で弾き始め、5歳の時には小さな曲を作曲したといわれる。その後6歳でウィーンに行き、マリア・テレジアに謁見し、ウィーンで数回演奏会を開催した。7歳になるとヨーロッパ中を制覇する旅に出た。ミュンヘン、アウグスブルク、マインツなどへ演奏旅行をした。その後もロンドン、パリ、アムステルダム、ジュネーブなどへ演奏旅行に出て、天才少年としてどこでも賞賛を浴びた。

写真左:モーツァルト肖像画、右:モーツァルトの生家

●イタリア旅行の必要性
モーツァルトがイタリアへ旅行したのは、単にイタリアの古代遺跡やルネッサンスの美術などを見たいという、18世紀に流行したグランドツァーの発想とは根本的に違っていた。この時代にはドイツのゲーテ、フランスの啓蒙思想家ヴォルテール、英国のワーズワースなど多くの作家、詩人などがイタリアを訪れたが、モーツァルト父子のイタリア旅行の最大の目的は、天賦の音楽的才能に恵まれたモーツァルトが、音楽的技能を磨き、イタリア内のどこかの宮廷で職を得るための就職活動を兼ねた旅行であった。
モーツァルトが生きていた18世紀後半の時代、ウィーンの宮廷では、イタリア人の音楽家がよい地位についていた。ウィーンの宮廷の音楽楽長はモーツァルトを毒殺したといわれるサリエリが勤めていた。恐らくこれはモーツァルトがサリエリの地位に嫉妬して流したデマであろう。当時オペラといえばイタリアが本場で、ヴェネツィアやナポリで上演されていたオペラが主流だった。
モーツァルトの父レオポルドは類稀な音楽的才能を持っている息子アマデウスをイタリアに連れて行き、当時活躍していたイタリア人の作曲家と交流し、またオペラの上演を見る事によってモーツァルトを偉大なオペラ作曲家にしようとした。当時オペラの優れた作品を作曲していない作曲家は一流の音楽家として認められていなかったのである。就職活動と一流のオペラ作曲家になるという目的がモーツァルト父子の3度にわたるイタリア旅行だった。モーツァルト父子は、イタリアの各地で美しい風物に触れ、各地で演奏し、喝采を浴びるが、一番望んでいた良い職を得るという目的は結局果たせなかった。

●ザルツブルクからブレンナー峠へ
モーツァルトの生まれた場所であり、夏にはザルツブルク音楽祭で賑わうザルツブルクは世界遺産にもなっている魅力的な街で、モーツァルトの生家の他にも彼が散歩したミラベル城庭園、家族の墓、洗礼を受けた大聖堂などの音楽史跡が至る所に点在する。が、このサイトはイタリアのサイトなどですぐにザルツブルクを出発しよう。
モーツァルトが父レオポルトとザルツブルクを出発したのは1769年12月13日。母と姉ナンネルを残して父親と2人の旅立ちであった。現在ザルツブルク祝祭歌劇場のある現代的な建物の近くに「ジグムント広場」があり、そこに美しい馬の彫像がある馬の水飲み場がある。ここは現在のガソリンスタンドのようなもので、モーツァルト父子はここから馬車でイタリアへ旅立った。モーツァルトは当時13歳の少年だった。

モーツァルト父子は12月15日にインスブルクに着き、ここで一泊する。モーツァルトが泊まったのはツム・ヴァイセン・クロイツZum Weissen Kreuzという現存する3ツ星ホテルで、ホテルの外壁にはモーツァルト父子が宿泊した事が書かれた記念碑がある。ホテルのオーナーの部屋がモーツァルトの泊まった部屋だった。私がこのホテルを訪れた時も若い人たちが沢山出入りして賑わっていた。

インスブルクにはもう一つモーツァルトの泊ったホテルがある。それは1390年創業のホテルゴルドナー・アドラーGoldener Adler(写真)で、ゲーテ、パガニーニなども泊っているが、モーツァルトは第3回目のイタリア旅行の1773年3月にこのホテルに宿泊したという記述がホテルの入り口の壁に書かれている。私がこのホテルに泊ったのは2004年8月で、モーツァルトの宿泊した部屋を見せてもらうと、307号室でモーツァルトスウィートになっていた。幼少の頃のモーツァルトの肖像画と手紙のコピーが飾ってあった。一階には薄暗いレストランがあり、奥にはこのホテルに2度宿泊したゲーテの肖像画が飾ってあった。

インスブルクの町は2度も冬季オリンピックの舞台となったリゾート地で、旧市街には黄金の屋根、市の塔、18世紀に建設されたロココ様式の装飾的な建物ヘルブリングハウスなどがあり美しいが、私には壮大なディズニーランドのような印象がした。初回のモーツァルトのインスブルク滞在は4泊5日、貴族を訪問し、音楽会に招待され、綺麗な協奏曲を初見で演奏している。父レオポルドもインスブルクでの滞在には満足し、12ドゥカーテンのお礼金をもらった事を暗号で手紙に記している。

1769年12月19日の午後インスブルクを出発したモーツァルト父子はブレンナー峠へと向かった。
モーツァルトの後18年後にゲーテもインスブルクからこの峠を越えている。ブレンナー峠1370メートルは古代ローマ時代よりドイツからイタリアへ行く場所として拓けた。周囲には3000メートル、2000メートル級のアルプスの険しい山々が立ちふさがっている。今でこそ高い橋の上を高速道路が通っているが、18世紀には馬車でこの峠を越えなくてはならなかった。しかもモーツァルト父子がここを通過したのは12月だった事を思うと我々が想像する以上に厳しい旅行だったに違いない。私もヴェローナからミュンヘン行きのユーロシティで何度もここを越えているが、いつも厚い雲が垂れ込めカラリと晴れていたという記憶がない。
ここを通り抜けイタリアにぐっと近づいたモーツァルトの心境は、未知の国イタリアへの憧れだろうか?また不安が交錯していたのだろうか。?

モーツァルト父子の旅行は馬車と御者を雇っての旅行だったが、25キロごとに宿場が置かれ、馬を交換しながら進んで行った。今でもポストという名前のある宿がこの地方に行くと多いのは当時の名残りである。
12月20日シュタイナーを立ちモーツァルト父子が最初に着いたイタリアの街はヴィピテーノVipiteno、ドイツ語ではシュテルツィングSterzingに着く(写真)。鉄道の駅から少し離れているが、旧市街は真っ直ぐな道が通り、奥には1468年に建設された塔がアルプスを背景に立っている。古い町並みを残す町で、鉄道がなかった時代この場所がブレンナー峠を越える商人たちの交通の要衝の町として繁栄した名残りが漂っている。建物の窓のバルコーニにはピンク、赤のゼラニュームの花が飾られ、ここはイタリアよりむしろオーストリアの文化圏の雰囲気がすると思った。
私と妻が訪れたのは2004年8月だったが、素敵なホテルもあり、落ち着いた中に古都の香りがして、一度泊って見たいと思わせる街だった。私達の乗ったタクシーの運転手はとても可愛い女性で、最初駅から町まで行き、1時間街を見てから、その後駅に戻りたいというと最初往復10ヨーロといっていたが、お金を払う段になると5ヨーロでいいという。イタリアで最初より多く請求された事はあるが、まけてくれたのはこれが初めてで、町も人もとても好印象を持った。
モーツァルト父子はここに宿泊しないで、57キロ走ってブレッサノーネBressanone,ドイツ語読みにするとブリクセンBrixenに夜着いた。

写真左:モーツァルトがコンサートをした騎士館
右:モーツァルトが弾いたオルガンのある大聖堂内

モーツァルトは第一回目の旅行の時は、ブレッサノーネに一泊しかしていないが、1771年の2回目のミラノからの帰路に立ち寄った時は司教レオポルド・マリア・ヨーゼフ・シュトゥーバー伯爵の熱い歓迎を受け、3泊している。
当時の資料によると12月12日には、イグナーツ伯爵はモーツァルト父子と共演し、夜食事を共にした事が書かれている。現在もモーツァルト父子が演奏した司教宮殿の「騎士の間」は残されていて天井には中央に輝く鳩とその回りには美しい天使の絵が描かれている。ブッレッサソーネを歩いていると町の中央のポルティコの壁にモーツァルト父子が訪れたという事が書かれた記念碑があった。
ブレッサノーネは18世紀中葉に宮殿、教会などの大きな建物の改築が行われ、オーストリア文化圏における後期バロック様式の建築が花開いた街である。街の中心にある大聖堂は2つの高い塔を持つ壮麗な建物で、内部は大理石、金箔で飾られたバロック様式の美しい装飾、教会の入り口の上部にオルガンがある。ここで1771年12月11日から12日にミサが行われ時、モーツァルトがこのオルガンを演奏した。私の行った日は日曜日でモーツァルトが弾いたオルガンを聞く事が出来た。
このブレッサノーネは陽射しが美しい事で知られる。彼方には雪を被ったアルプスの峰々、牧草でおおわれた丘などが見え、街はリエンツァ川とイサルコ川の合流点に位置している。光が明るく美しく、歩いてみると素敵なカフェなども随所にあり、魅力的な町だ。緑が多く、川のせせらぎと古い塔などが調和し、イタリアで最も心が癒される町といえるかもしれない。

写真左:ホテルエレファンテ、右:ブレッサノーネの町並み


私は2000年にもこの街を訪れている。その時は、1551年創業のホテルエレファンテElefanteを訪問した。このホテルはポルトガル王ジョヴァンニ3世から彼の甥フェルディナンドへインド産の象をプレゼントした時にウィーンに行く途中このホテルに象を伴った一行が宿泊し、象が珍しかった当時の人々にセンセーションを起こし、それでこのホテルはエレファンテと呼ばれるようになった。
もう一つは1500年創業のゴルドナー・アドラー(黄金の鹿)という名前のホテルで、ここにはフランスの哲学者で「イタリア旅日誌」を書いたモンテニューが、このホテルに宿泊した事を記述している。
ドオゥーモの前の細い小道を入って行くと左側に古びたレストランがある。オステ・スクーロ・フィンステルヴィルト Oste Scuro Finsterwirtという名前の店で、創業は1200年に遡るという。私が書いた拙著「イタリアの歴史的ホテル・レストラン・カフェ」にはイタリアの古い歴史的ホテル、レストランなどを沢山紹介しているが、その中でも最も古いレストランがこのオステ・スクーロ・フィンステルヴィルトで、妻と入ってみたがジャガイモなどが美味しい典型的なオーストリア風の料理だった。蔦のからまる古い建物が長い歴史を物語っていた。

1769年12月21日モーツァルト父子はブレッサノーネを出発し、26キロメートル先のカンポダッツオCampodazzoに着き、その後更に南下し15キロ先のボルザーノBolzanoにその日の夕方着いた。

データ

お薦めホテル・レストラン
インスブルク Innsburg
★Gast Hof Weisses Kreuz 創業1465年、モーツァルト父子が1769年に宿泊している。3ツ星
Herzog-Friedrichi-Strassse 31 A-6020 Innsburg
Tel:43/512/594790 Fax:43/5125947990
E-mail:hotel@weisseskreuz.at

★Hotel Goldener Adler 1390年創業で、モーツァルトが1773年に宿泊している。他にゲーテ、パガニーニ、詩人ハイネなども宿泊している。4ツ星、モーツァルトの泊まったスウィートがある。
Herzog-Friedrichi-Strasse 6 A-6020 Innsburg
Tel:43/512 571111 Fax:43 512 584409
E-mail:occice@goldeneradler.com

ブレッサノーネ Bressanone
★Elefante 1551年創業で、象が泊って出来たホテル、ロマンティックな4ツ星ホテル。
Via Rio Bianco 4 39042 Bressanone
Tel:0472 832750 Fax:0472 836579
E-mail:info@hotelelefant.com

★Goldener Adler 1500年創業の歴史的ホテルで、モンテニュー、コシモ・ディ・メディチが宿泊している。4ツ星。
Via Ponte Aquila 39042 Bressanone
Tel:0472 200621 Fax:0472 208973
E-mail:info@goldener-adler.com

★Oste Scuro Finsterwirt 1200年創業、イタリアで最も古いレストランの一つ。
Vicolo Duomo 3  Bressanone
Tel:0472 835343


マイアベーアのオペラ「エジプトの十字軍」

今年の3月から4月にかけてヴェネツィアのフェニーチェ座で上演されるマイアベーアのオペラ「エジプトの十字軍」は日本で訳や粗筋などがない。JITRAの読者でもこのオペラをご覧になる人もいると思うので、友人のオペラ研究家、石田康博氏の協力を得て、粗筋を作成しましたので御紹介します。このオペラを鑑賞する助けになれば幸いです。
(3月にフェニーチェ座で上演予定だったマイアベーアのエジプトの十字軍は中止になり、来年度に延期になりました。)

写真左:マイアベーア、右:ヴェネツィアフェニーチェ座のロイヤルボックス


エジプトの十字軍
ジャコモ・マイアベーア(1791-1864)作曲
初演:1824年12月26日,ヴェネツィア
台本:ガエターノ・ロッシ
配役:
パルミーデ(Palmide) アラディーノの娘
アラディーノ(Aladino) ダミエッタのサルタン
アルマンド・ドルヴィッレ(Armando d'Orville) 騎士、別名エルミレーノで知られている
アドリアーノ・ディ・モンフォルト(Adriano di Montfort)
フェリチア(Felicia)
アルマ(Alma)
オスミン(Osmin)

<あら筋>
舞台は,エジプトの沿岸地方のダミエッタ市およびその近郊。ロードス(エーゲ海のギリシャ領)騎士軍は戦いに敗れ,騎士団の1人のアルマンド・ドルヴィッレは,死んだふりをして生き延びていた。彼は,エジプト兵士に変装して,ダミエッタ市に入り,幸運なことに,サルタンのアラディーノの生命を救うことに役立った。アルマンドは,エジプト人にはエルミレーノの名で知られ,サルタンの娘,パルミーデと恋に陥り,プロヴァンスの娘,フェリチアとの誓いを破り,秘かにパルミーデとの間に1人息子をもうけている。エルミレーノとして,サルタンに仕え,ダミエッタの部族の敵に対する軍事活動を指揮している。そうする間に,ロードス騎士軍は,サルタンに和平の締結と捕虜の交換を申し入れ,ダミエッタに大使を派遣してくる。ここでオペラの幕は開く。

第1幕 第1場 サルタンの宮殿の中庭。右手にヨーロッパの奴隷たちの居住地。
夜明けに,奴隷たちが庭に労働に連れ出されてくる。彼らは,祖国を離れて囚われの身でいることを嘆いて歌い,拘束から逃れるために死を望んでいる(「愛する祖国よ」Patria amata!)。サルタンの娘,パルミーデが登場し,奴隷たち彼女にあいさつし,彼女は奴隷たちにエルミレーノからの贈り物を与え,彼らへの同情を表明する(「エルミレーノの贈り物」I doni d'Ermireno)。サルタン,アラディーノが登場すると,奴隷たちは身を地に伏せる。彼は,ちょうどこの日にエルミレーノは戦に勝って帰り,戦利品を彼女の手にもたらすだろう,とパルミーデに告げる。2人は喜びを歌う(「勝利者はこの胸に」Vincitore a questo petto)。群集は英雄の到着を待っているが,大臣のオスミンだけは,自分が王座についてパルミーデと結ばれることを望んでいるので,サルタンがパルミーデにエルミレーノが将来の彼女の夫になると告げるのを聞いて,怒りに燃える。ラッパが英雄の帰還を告げ,エルミレーノは彼の勝利を表明する(「エジプトの民よ」Popol d'Egitto)。サルタンは彼を抱き締め,彼の全ての希望が満たされることを彼に確信させる。エルミレーノは,自分の望む唯一の報酬は愛だと宣言し(「恋人の愛しい手」Cara mano dell'amore),群集は彼を勝利の英雄として歓呼する。

第2場 ナイル川のそばのロードス騎士団の野営地。
騎士たちは平和への憧れを歌い,フランスへ帰ることを望んでいる(「船を見ろ」Vedi il legno)。隊長アドリアーノは,甥のアルマンドを失ったこととサルタンとの和睦の問題に関する彼の気持ちを深く考えている(「この望み」Queste desire)。アドリアーノと騎士たちが退場した後,エルミレーノとパルミーデが息子を連れて登場する。彼らは,自分たちの罪がやがてサルタンに暴かれるであろうことを感じて絶望している(「私たちにはもはや愛の希望はない」Non v'e' per noi piu' spme amor)。パルミーデと息子は立ち去り,アドリアーノと騎士たちが登場する。エルミレーノは彼らを迎え,アドリアーノは死んだと思っていた甥のアルマンドに気がつく。アドリアーノは,彼の誓約を拒否し彼の信用を否定したことでアルマンドを叱る。アルマンドは,自分の剣をアドリアーノに引渡し,アドリアーノは,アルマンドに名誉か死を選ぶように求める。アルマンドは,彼の父の剣に騎士道への中世を誓い,アドリアーノは彼に剣を与える。2人は究極の勝利を誓い合う(「無敵の剣」Il brando invitto)。

第3場 宮殿の中庭
フェリチアが,男装してアルマンドの墓をさがしながら,ダミエッタに到着する。彼女が庭へ入ってくると,そこでは,パルミーデの女中のアルマが,パルミーデとアルマンドの子供のミルヴァを見ている。その子供が,死んだと思われている彼女の求婚者に似ていることにびっくりして,その子を抱き締める。パルミーデが入ってくるので,フェリチアは,この子が自分の弟に似ているので思わず抱きしめてしまったのだと説明する。パルミーデは,フェリチアの本当の正体に気がついていないので,この子はアルマンドの子であると云い,彼が生きていることを仄めかす。フェリチアは正体を現し,自分のアルマンドへの愛を宣言する。彼女は,かつてアルマンドが彼女に歌ったセレナータを思い出す(「若い小さな騎士が」Giovinetto Cavalier)。パルミーデもまたセレナータを歌い,それを繰り返して歌うアルマンドの声が聞こえてくる。続いて歌われる3重唱(Mai provare, o giovin cor)で,パルミーデとアルマンドは2人の愛を宣言し,フェリチアはアルマンドを求めることを諦め,幸せなカップルに祝福を与える。

第4場 王宮
サルタンと従者たちは,平和条約の署名に来るロードス騎士団の到着を待っている。エジプトの司祭たちの合唱は,提案されている平和協定への不満を表明するが,サルタンはアドリアーノと騎士団を迎え入れ,条項を受け入れる。彼はヨーロッパの奴隷全員を解放し,パルミーデとエルミレーノの結婚の日を祝うため誰でも招き入れる。エルミレーノが騎士の服装で登場して正体をあらわすのを見て,思いがけないことに驚愕する。続く4重唱(「やっと騎士を知ったか」Cavalier conosci ormai)で,アルマンドは騎士道への忠誠を宣言し,パルミーデは苦悩を表明し,アラディーノはエルミレーノの思いがけない裏切りを非難する。アラディーノはアルマンドを殺害しようとするが,フェリチアが止める。フィナーレでは全員が困惑した感情を表現する中,サルタンは戦争の再開を宣言する。サルタンの家来たちは,騎士団の旗を引き裂き,彼らを取り囲む。アラディーノは,オスミンに騎士団全員を捕らえるよう命じる。

第2幕 第1場 宮廷の中庭
短い場面で,オスミンは,アルマから,ミルヴァがパルミーデとアルマンドの子であることについて教えられ,サルタンに知らせに出てゆく。フェリチアは,未だ変わらぬアルマンドへの愛をアリアで歌う。パルミーデが登場し,死だけを望んでると歌う(「人里はなれた隠れ家」O solinghi recessi)。アルマが子供を伴って登場し,引き続いてオスミンとサルタンが登場する。パルミーデは子供を抱きしめ,サルタンはその子を殺すぞと脅す。パルミーデは,父もかつてはエルミレーノを愛していたことを涙ながらに訴え,かつての寵臣の血を流さないように懇願する(「絶望する母を」D'una madre disperata)。アラディーノは2人を抱いて優しくする。パルミーデは喜びを歌う(「」Con qual gioia le catene)。アルマンドとアドリアーノは逮捕されるが,ミルヴァがアルマンドの息子で,サルタンが彼を許したことが明らかになると,アドリアーノはアルマンドをののしる。サルタンが騎士たちを開放してこの場面は終わる。

第2場 ナイル川岸近くの荒廃した神殿
オスミンの率いるトルコ高官たちは,アラディーノを待ち伏せし,打倒しようと計画している(「恐怖の間の静けさで」Nel silenzio fra l'orror)。彼らは遺跡の中に身を隠している。アルマンド,パルミーデ,アドリアーノ,フェリーチェ,ミルヴァが登場する。3重唱(「慈悲深い神よ」O ciel clemente)で,パルミーデはキリスト教に帰依し,アドリアーノは,アルマンドとパルミーデが結ばれることを祝福する。アラディーノが登場して,娘の裏切りを非難する。アラディーノは復讐を宣言し,アドリアーノはアラディーノへ公然と戦いを挑む。オスミンとトルコ高官たちはアラディーノに相手に屈しないように懇願し,サルタンはオスミンに騎士たちを再び幽閉するよう命じる。

第3場 宮殿の監獄
アドリアーノと騎士たちは,神に最後の時の恵みを祈り(「すべては終わった」Tutto e' finito),アドリアーノは神の栄光を歌う(「天上の栄光」La gloriaceleste)。

第4場 ダミエッタの大広場
アルマンドは広場に引っ立てられてくる。彼の思いは,もう二度と会えまいと思っている息子のことに集中している(「ああ,なんと速く希望は潰えたか」Ah! Comerapida fuggi la speme)。フェリチアと騎士たちはオスミンとトルコ高官たちに連行されてくる。彼らは,騎士たちに,アラディーノ殺害計画に加わるなら自由にしてやると約束する。トルコ高官たちは,騎士たちを武装させる(「高い秘密を聞け」Udite or alto arcano)。アドリアーノは最初に暴君に襲い掛かると宣言する。アラディーノがパルミーデを連れて登場し,オスミンに騎士たちを殺すよう命じる。オスミンはアラディーノに向かって走りより,サルタンが最初に死ぬのだと宣言するが,アルマンドは剣を引き抜いてアラディーノを守り,騎士たちに裏切られた王様を防衛すよう命じる。アドリアーノは,アルマンドの例から真実の勇気を学ぶよう騎士たちに呼びかける。オスミンと反逆者のトルコ高官たちは騎士たちに捕らえられ,アルマンドは自分の剣を放棄してアラディーノの足元に置く。フェリチアとパルミーデは,サルタンに慈悲を希う。フィナーレ(「どんな魂も認められる」Ravvisa qual'alma)では,アラディーノはアルマンドを許し,アルマンドとパルミーデを抱いて祝福する。

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ジャコモ・マイアベーア、本名ヤコプ・リープマン・ベーア(Jakob Liebmann Beer)は,1791年9月5日,ベルリンで生まれた。幼少に音楽の才能をみせ,ダルムシュタットでアベ・フォーグラー(Abbe Vogler)に作曲を学んだ。21歳で,オペラ作曲を開始した。最初のオペラ「イェプタス・ゲリュープデ(Jebthas Geluebde)」は,実際にはオラトリオ風だったが,1812年ミュンヘンで初演した。成功はしなかったが,この若き作曲家は第2作の「Wirt un Gast, oder Aus Scherz Ernst」を準備し,1813年シュツットガルトで初演された。この喜劇的作品はウィーンで受け入れられ,「アリメレク(Alimerek)」のタイトルで上演されたが,大失敗であった。ウィーンでは,作曲家サリエリがヤコプ・ベーアにイタリアへ行って声楽を学ぶよう助言した。


スカラ座 イタリアオペラ鑑賞会ではスカラ座でオペラをご覧になりたい人の為にスカラ座のオペラチケットを取る代行サービスを始めました。リニューアルされたスカラ座のチケットの確保は御存知のように多忙な人にとってはなかなか大変です。しかし当会では長年の経験を生かしてスカラ座のチケット確保の特別なルートを開拓し、以下のようなサービスを始めましたので御利用下さい。 スカラ座とその他イタリアのオペラハウスのチケットの手配、フェニーチェ座、ボローニャ、パルマ、ローマ、ジェノヴァ、トリノ、夏の音楽祭(ペーザロ、ヴェローナ)など、JITRAのイタリアオペラカレンダーで紹介している劇場の全てのチケットの手配が可能です。個人、イタリアへの音楽ツアーを企画する旅行会社の方もOKです。チケット手配ご希望の方はまず当会の会員登録をお願いします。登録料は一切かかりません。
しかし、チケットの手配については一枚4000円から5000円の手数料がかかります。日程、キャストなどは、チケットの手配を受け付けた方のみお調べします。


★2005年12月から2006年にかけての主な演目と劇場★
* 12月7日 スカラ座初日はハーディング指揮の「イドメネオ」  スカラ座 ミラノ
* ホセ・クーラの「アンドレア・シェニエ」  テアトロ・コムナーレ ボローニャ
* 1月末〜2月 シャイー指揮の「リゴレット」  スカラ座 ミラノ
* 1月下旬 「ファヴォリータ」(バルチェローナ他)  カルロ・フェリーチェ ジェノヴァ
* 2月 ストレーラー演出の「フィガロの結婚」  スカラ座 ミラノ
* 2月末〜3月初め フローレス出演の「セヴィリアの理髪師」  テアトロ・コムナーレ ボローニャ
* 4月 「ノルマ」(テオトッシュウ、バルチェローナ出演)  テアトロ・マッシモ パレルモ
* 4月 マゼール指揮の「トスカ」  スカラ座 ミラノ
* 3月、7月 「ランメルモールのルチーア」  スカラ座 ミラノ
* 6月 「仮面舞踏会」  カルロ・フェリーチェ ジェノヴァ

詳細については下記の場所にメイルでお問い合わせ下さい。
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イタリアオペラ鑑賞会
☆詳細は下記の場所に連絡を願います。
Tel/Fax:043 246 1571(日本)
E-mail:joschuajp@ybb.ne.jp


著者プロフィール

牧野宣彦(まきののぶひこ)


早大卒。1974年旅行会社にて日本初のニューイヤー・スカラ座オペラツァーを企画。その後コンピュータ会社を経て、1998年によりイタリア、ボローニャ在住。フリーのトラベルライターとして、旅行、音楽、グルメ関係の執筆、写真撮影をする。 2003年オーストリアのエリザベート皇妃、2004年ゲーテのイタリア紀行、2005年モーツァルトのイタリア旅行とオーストリア、2006年はイタリアの世界遺産など毎年テーマを決めて写真撮影を行っている。著書「イタリアの歴史的ホテル・レストラン・カフェ」(三修社)、「イタリアオペラツァー」(あんず堂)「イタリアのベストレストラン」(透土社)「音楽と美術の旅、イタリア」(共著、音楽之友社)などがある。
 





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