マルケ州はイタリアのオペラ作曲家の宝庫で、ペーザロPesaroにはロッシーニRossini、夏の音楽祭で有名なマチェラータMacerataは、ラウロ・ロッシLauro Rossi、レカナーティRecanatiのジュゼッペ・ペルシアー二Giuseppe Persiani、名作「ヴェスタの巫女La Vestale」を作曲したスポンティーニSpontiniもマルケ州のマイオラーティ・スポンティーニMaiolati Spontiniが故郷であり、それぞれ作曲家の名前を付けたオペラハウスがある。他にもこの周辺は美しい劇場も多く、ファーノFanoのテアトロ・デッラ・フォルトゥーナTeatro della Fortuna、ウルバニアUlbaniaのテアトロ・ブラマンテTeatro Bramanteなどキラ星のように素晴らしい劇場が点在している。
イエージは人口約4万人、アドリア海に近いエジーノ川の左岸に街は築かれている。この町は以前ウンブリア人によって「Aesis」と呼ばれ街は建設された。このエイシスと言う名前が、現在の街イエージ、エジーノ川両方の地名の由来になったといわれている。街は14世紀に築かれた城壁に囲まれていて、中世の趣のする街である。音楽ファンにとってこの街は重要である。というのはナポリ派の巨匠で、早世の天才ペルゴレージが1710年この街で生れている。また、13世紀前半に活躍した神聖ローマ帝国のフェデリコ2世がこの街で生れ、その場所は現在フェデリコ2世広場になっている。
●ペルゴレージ劇場 Teatro Pergolesi
イエージには1731年に建設されたテアトロ・デル・レオーネTeatro del Leone があったが、古くなり、危険になったので新しい劇場の建設が1790年頃始まった。入り口を入るとスポンティーニの胸像があり、奥にペルゴレージのブロンズ像がある。劇場内部は3層になっていてその上にガレリアがある。建設のプロジェクトは、ファーノのフランチェスコ・マリア・チラフォーニFrancesco Maria Ciraffoniとイモラのコジモ・モレッリCosimo Morelliが設計し、内装は、2人の有名なネオクラッシックの建築家ジョヴァンニ・アントニオ・アントリーニGiovanni Antonio Antolini、画家のフェリーチェ・ジアー二Felice Gianiなどが、装飾家のガエターノ・バルトラーニGaetano Bartolaniとフランチェスコ・ミカレッリFrancesco Micarelliなどの援助を受けて完成した。天井の「アポロの物語Storie di Apollo」を描いたのはジュゼッペ・ジュドッチGiuseppe Giuducciだった。そして1798年のカーニバルにチマローザの二つのオペラで開場したらしいが、確かではない。しかしその当時6歳のロッシーニの母親であったアンナ・グイダリーニがここで歌っていたのは間違いないらしい。1883年に当地出身のペルゴレージを記念して劇場名をテアトロ・ペルゴレージと改名した。


緞帳の美しい絵は1850年にルイジ・マンチーニLuigi Manciniが描いたといわれる。絵の題名は「フェデリコ2世のイエージへの入場I'ingresso in Jesi di Federico U」、十字軍を率いてエルサレムに遠征したフェデリコ2世は、パレルモの文化を高めた優れた支配者だった。伝説によるとホーエンシュタイン家のフェデリコ2世は、1194年、母コンスタンツァが旅行している時、メルカートに張られたテントの中で生まれ、その時多くの民衆が見守っていたという。彼は自分の生れた街イエージをこよなく愛し、「私のベツレヘム」と呼び、そして成人して再びこの町を訪れた。
この劇場のオペラシーズンは例年10月から11月の2ヶ月で数本のオペラ、バレエなどが上演される。ペルゴレージの珍しい作品やマルケ州の作曲家の知られていない作品などがよく上演される。今年は当地と縁の深い「フェデリコ2世」の公演がある。2004年のプログラムが発表されているので紹介します。
★2004/10/01,2
マルコ・トゥッティーノMarco Tutino作曲「フェデリコ2世Federico U」
★10/15,16,17
ウンベルト・ジョルダーノUmberto Giordano作曲「アンドレア・シェニエAndrea Chenier」
★10/29,30,31
ドニゼッティDonizetti作曲「愛の妙薬 L’Elisir D’Amore」
★11/6,7
ヴェルディVerdi作曲「ラ・トラヴィアタLa Traviata」
★11/12,13,14
ブルーノ・デ・フランチェスキBruno De Fraceschi 作曲 「バレエ・ファジータイムFUZZY Time」
♪チケット・オフィス Biglietteria del Teatro G.B.Pergolesi♪
Piazza della Repubblica 9
Orario:9:00~12:3017:00~19:30
Tel:0731 538355Fax:0731 538384
E-mail:bigliettria.pergolesi@comune.jesi.an.it
http://www.teatropergolesi.it

●シニョーリア館 Palazzo della Signoria
15世紀後半フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニFrancesco di Giorgio Martiniがルネッサンス様式で建てた優雅な建物。アンジェロ・コロッチ広場Piazza Angelo Colocciにある。17世紀に造りなおされた塔が聳え、美しい中庭がある。市立博物館、市立図書館、歴史資料館があり、絵画館Pinacoteca Civicaにはロレンツォ・ロットLorenzo Lotto、ピエロ・パオロ・アガビティPiero Paolo Agabiti、グエルチーノGuercinoなどの作品がある。博物館には考古学的資料、15,16世紀の彫刻、18世紀の陶器などを展示している。
●フェデリコ2世広場 Piazza Federico U
細長い形をした美しい広場、この広場には旧サン・フロリアーノ教会ex cheisa di San Floriano、リパンティ館Palazzo Ripanti、バッレアーミ館Palazzo Balleamiなどの16世紀から19世紀に建設された建物が美しい。奥に18世紀に建設されたドゥオーモがある。フェデリコ2世はここのメルカートのテントの中で生れた。それを記念して記念碑がある。
●ペルゴレージモニュメント Monumento a G.B.Pergolesi
15世紀後半に建設されたサンタウリオ・デッラ・マリア・デッレ・グラッツィエ教会Santaurio della Madonna delle Grazie の前の広場は、ペルゴレージ広場と名づけられていて、そこにペルゴレージのモニュメントがある。この作品は彫刻家のアレッサンドロ・ラッツェリーニが製作したもので、イエージの人のペルゴレージへの尊敬が見られる。
●ペルゴレージの生家 Casa Natale di Pergolesi
劇場のあるレプブリカ広場から市庁舎を抜けるとペルゴレージ通りになっていて、ここからフェデリコ2世広場までがイエージの繁華街になっている。途中にギスリエリ広場があり、その奥にペルゴレージの生れた家がある。一階はセーターなどを売る店で2階にペルゴレージが1710年1月4日に生れたという碑がある。
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★ペルゴレージの生涯
ペルゴレージは1710年にイエージに生まれ、幼少の頃から音楽の才能を示し、恐らく16歳の時にナポリのポヴェリ・クリスト音楽院に入学し、ここで5年間作曲、歌などの勉強をした。フィレンツェで1597年に誕生したオペラという芸術はその後ヴェネツィアを経由してナポリが中心になり、ペルゴレージは当時の偉大な作曲家であるレオナルド・ヴィンチ、フランチェスコ・ドゥランテなどに作曲を学んだ。最初のオペラ「サルスティアSalustia」をサン・バルトロメオ劇場で発表したが失敗に終わった。しかしその後3幕の喜劇「恋に陥った修道士Lo Frate’nnamorato」で成功を収め、1733年には最大傑作といわれる「奥様になった女中La Serva Padrona」をサン・バルトロメオ劇場で上演し成功を収めた。
ペルゴレージは栄光の陰で悲劇の主人公のような生活を送った。ペルゴレージは、ナポリの名門王族出身のカリアッティ公の令嬢マリア・スピネッリMaria Spinelliに恋をし、二人の恋は令嬢の3人の兄から身分が違うので結婚は認められないと大反対にあう。失意のマリアはサンタ・キアーラ寺院に入って修道女となる。そして1753年3月世を去ってしまう。それ以来ペルゴレージは喜劇的要素のあるオペラブッファの作曲をやめて、宗教音楽の作曲に心血を注いだという。しかし恋の痛手は彼を精神的にも肉体的にも蝕み、持病の結核が悪化し、マリアの死の一年後の1736年3月ナポリ郊外のポッツォーリで26歳の若さで世を去った。彼の最も優れた作品は宗教音楽といわれ、カンタータやミサ曲「スタバト・マーテル」などといわれている。特にオーケストラは当時としては斬新で独創性に富んでいた。しかし彼の成功があまりにも華やかだったために同時代の優れた他の作曲家の作品が多くペルゴレージの作品と称し、出版されたと言われている。これから彼の研究が進めばその実態は明らかにされるであろう。しかしペルゴレージがナポリ派を代表する偉大な作曲家であることは間違いがない。長生きをしていればモーツァルトやロッシーニに匹敵する大作曲家になったとも言われている。私は去年の夏彼の亡くなったポッツォーリのカプチン会修道院を訪ねた。しかし戦争で破壊され、彼のお墓を見る事はできなかった。