北東イタリアを旅する際、その起点となるのはいつもヴェネツィアである。本来ならば本土側にあるヴェネツィア・メストレを活用した方が時間的には効率がよいのだが、それでは旅の醍醐味にかける。旅の始まりはつねにヴェネツィア本島サンタ・ルチア駅と決まっているのだ。
ヴェネツィアとメストレを結ぶ鉄橋が完成する1841年までヴェネツィアは1000年に渡りつねに水路を唯一のアプローチとする海の都であった。つまりこの鉄橋はヴェネツィアにとってアイデンティティ喪失の証なのである。それだけにサンタ・ルチア駅はローマ・テルミニやミラノ中央駅と比べてもひときわ終着駅感が強い。見ればホームにとまっているのは東のはずれトリエステに向かうIRやプラハに向かうENドン・ジョヴァンニ号など旅愁をそそる列車ばかり。トレニタリアではICやEC、ENによく著名人の名前をつけるが、ヴェネツィア発着の列車にはこんなものもある。ウィーン行きECストラディバリ、同じくヨハン・シュトラウス、ウディネに向かうICNはマルコ・ポーロである。そうした列車に心を動かされながら心の中ではモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の序曲が鳴り響く。出発の時である。
今回の旅はそうした東へ向かうエキゾチックな旅ではなく、ヴェネト平原をトレヴィーゾへと向かう旅である。レジョナーレなら30分強で着いてしまうトレヴィーゾは長旅派にはものたりないが、ヴェネツィアから足を伸ばしてワンデイ・トリップを試みるなら申し分ない距離にある。
トレヴィーゾ中央駅から3分も歩けばすでに旧市街。水鳥が遊び濠に囲まれたトレヴィーゾは散策するのにちょうどよい規模の町である。町の中心にあるのはシニョーリ広場。カンパノンと呼ばれる塔がそびえるポデスタ館をくぐり抜けると小さな広場に出るが、そこにあるのが1870年創業の老舗「アンティコ・リストランテ・ベッケリーエ」である。
この「アンティコ・リストランテ・ベッケリーエ」、料理はもちろんのことサービスも風格も申し分ない堂々たる老舗料理店だが、実はティラミス発祥の地として名高い。ティラミスの元祖は1600年頃にメディチ家で作られたリキュールをスポンジケーキに浸した「ズッパ・ディ・ドゥカ」とされている。それがヴェネツィアに伝わって貴族間で食べられるようになり、ヴェネツィア文化圏であるトレヴィーゾにも伝わったと考えられている。しかし本来郷土菓子であったこの「ズッパ・ディ・ドゥカ」を世界中で誰もが知る「ティラミス」と命名したのは他でもない、「アンティコ・リストランテ・ベッケリーエ」の現オーナー、カルロ・カンペオールの祖母アントニエッタであった。
トレヴィーゾ名物であるラディッキオ料理を十分に堪能した後にサーブされる元祖「ティラミス」はほろ苦い大人の味。スポンジケーキの間に塗り込まれているのはマスカルポーネではなく、トレヴィーゾの歴史である。ひとつの菓子を食べるために旅をするのは全くもって馬鹿なことではない。しかしその目的は「美味しいから」というような安直なものでなく、本質を知る温故知新の旅でなければならない。
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「アンティコ・リストランテ・ベッケリーエ」のティラミス

トレヴィーゾ中央駅まで各駅停車レジョナーレでヴェネツィアから30分強

町の中心シニョーリ広場とトレヴィーゾのシンボル、カンパノン
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