海中公園は、カンピ・フレグレイの歴史上きわめて重要な2つの中心地、すなわち、バイアとプテオーリ Puteoli(現在のポッツオーリ Pozzuoli)の一部にまたがっている。バイアは、その温暖な気候と風光明媚な土地、そして効能豊かな温泉の恵みによって、3世紀を通じてローマの最も有力な貴族や皇帝一族の訪れる有名な保養地となった。プテオーリは長い間ローマの主要な貿易港であった。やがて沿岸地帯を水没させることになる地盤のゆるやかな沈下の最初の兆候は4世紀末に見られたが、6世紀にもなおカンピ・フレグレイは快適なリゾート地とされており、中世に完全に放棄されてからも、温泉は病気の治療に利用されていた。
現在の風景は古代の地形とはだいぶ異なっており、かつてバイアの入り江には広い水路で外海につながった湖(バイア湖 Baianus lacus)があり、その岸には接岸所や養魚場をそなえた豪華な別荘が立ち並んでいた。一方、現在よりもはるかに大きかったルクリーノ湖 Lago Lucrinoにはユリウス港 Portus Iuliusがあり、隣接するポッツオーリの岸には、地中海と東方からもたらされる商品の倉庫が切れ目なく連なっていた。こうした環境と水没した豊富な考古学的遺産の保護のために、今日、この沿岸は広い範囲にわたって環境省の保護下の海域となり、3つのゾーン―補足的保護区(A)、部分的保護区(B)、総合的保護区(C)―に分けられた。
海中公園の概要
「補足的保護区(A)は、利用可能な考古学地域となっており、砂の上に露出している多数の構造物の間を縫って2つの海中見学コースが設けられている。これらはいわゆるピゾーニ家の別荘 Villa dei Pisoni、温泉施設、道路や商店などの重要な考古学的総合施設に結びつくもので、この地域の際立った特徴を示している。一方では、広々とした空間と豪華な装飾を特徴とする贅沢な別荘群があり、他方では狂騒的な世俗生活の中心地の限られた空間を争奪し合っていた公共建築や私的建築の密集する地区があった。
見学コースは、モザイクの床や長い列柱といった最も魅力ある景観を際立たせているだけでなく、木枠、温泉の過熱装置、配水あるいは貯水のための鉛管などの建築技術の細かい部分にも力点を置いている。これは専門家に重要な技術的細部を示すためであると同時に、すべての見学者に施設自体のごく小さい細部にも注意を促し、その重要性を理解してもらうためでもある。
部分的および総合的保護区(BとC)には、大規模な港湾施設であるユリウス港(ポルトゥス・ユリウス)がある。この港は、紀元前37年に将軍アグリッパAgrippaがセクストゥス・ポンペイウスSesto Pompeoとの戦争に備えて軍港として造らせたものである。軍港としての役割は新しいミゼーノMisenoの港に移されて早くに失われ、ユリウス港は基礎施設や倉庫の建設によって拡張され、プテオーリ港の収容能力を補強して、商港としての重要な役割を担うようになった。そこには、毎年何百隻ものアレキサンドリア船が停泊し、エジプトの麦や、インドからインド洋、紅海、エジプトの砂漠の隊商路を経てイタリアに運ばれてきたその他多くの異国の産物(香辛料、ガラス、軟膏、織物)をもたらした。
バイアの海中公園の重要性
この地域の水中に残る遺物は、陸にあるものと同等かそれ以上に、歴史的な重要性と大きな価値―今のところ潜在的なものにすぎないが―をもつ、異例の文化・観光遺産となっている。それは、独特の物理的な条件に決定づけられ、海中に没したことによって生じた多数の地質学的かつ自然科学的な要素において、考古学的な側面に環境的な側面が結びついた特別の状況を呈している。この遺産はまだ完全には明らかにされていないものの、ここ数十年間の水中考古学の研究の発達と、水中を含む地域の保護と理解に向けられた考古学遺物保護局の努力のおかげで、絶えず新しい情報が加わっている。次の一歩、すなわち、その場での遺跡保存とその有効な利用を組み合わせるということは、さらに困難かつ複雑である。ダイバーのためだけではない真の野外博物館の建設を実現させるためには、この海中公園の創設は大いに有効であろう。
バイアの海中公園では、環境省と国土保護省管轄下のすべての保護地区と同様、スポーツとしての釣り、航海、遊泳と潜水などのレジャー活動の規制を含む一連の措置が、補足的、部分的あるいは総合的な保護区との関連において取られている。考古学公園の区域では、水中あるいは陸上のガイドつき見学がすでに行われている。