考古学的背景
ラ・チヴィテッラ考古学博物館Museo Archeologico della Civitellaは、古代ローマの円形劇場跡のある公園内の、20年前まで市営競技場があった場所に建っている。アブルッツォ州考古学監督局の計画をもとに、文化省、アブルッツォ州およびヨーロッパ共同体の出資により2000年の11月18日に開館した同博物館は、キエーティChieti市の起こりと発展を再構成するために有用な考古学的遺物や資料を展示している。展示物はすべて市とその周辺から出土したものであり、人間の最初の痕跡(旧石器時代)から19世紀末の陶器にいたるまでの時間の流れが、ごく最近市内で行われた発掘作業に裏付けられている。チヴィテッラ地区全体の遺跡発掘は約20年にわたって続けられ、円形劇場のほか、旧市街に向かう丘の斜面にあった紀元前2世紀の神殿跡が明るみに出た。同地区は、それ以前にも人の行き交う場所であったことが原始時代の遺物から知られており、4世紀に劇場が使われなくなってからも、その地が利用された形跡は初期中世の職人たちの仮小屋や6−7世紀頃の共同墓地の跡に見られた。いっぽう、19世紀の間に練兵場を作るため、平らにならされてしまったアクロポリスの丘の最上部の配置に関しては何も残っていなかった。考古学的な発掘と並行して、同地区の歴史的再構成に役立つ史料を出土品の倉庫や監督局の古文書館において掘り起こす作業が行われ、実際の発掘に劣らず興味深い成果がもたらされた。競技場として利用されていた広い地区の過去の姿が徐々に明らかになるにつれ、その場所に、発掘されたばかりの古代の円形劇場の保存やその他の歴史的な遺物と共存しうる新たな役割を与える必要が痛感されるようになった。調査の結果、目に見える形で現れたのは円形劇場の下部(最下段と中段の観客席)および出入り口、それぞれの基盤構造に加え、やはり土でできた(石の外装の跡がかすかに残っている)階段席を支える演壇の壁によって区切られた円形劇場であった。
こうして、ここに単なる考古学遺跡公園を作るのではなく、都市の歴史を知るための一連の資料と、文化・スポーツ・舞台公演全般のための新しい場を作るという思い切った決断がなされ、キエーティの住民に、荒廃の著しかった歴史的地区のひとつを取り戻させることをを可能にした。同地区における円形劇場やその他の考古学的遺物の存在、倉庫に保管されている資料の充実した内容やその特徴、古代の都市における同地区の役割などが、活性化された地域を現在の都市に取り戻す総合センター創設を主要目的とした計画のための前提となった。現在の都市機能を補完する文化施設としての強い性格づけが、地元の潜在力の見直しをはかりつつ、市民および外部の人々にきわめて有益に作用することは疑いなかった。
現在この計画―円形劇場の修復と再機能化、博物館の常設展示室、企画展示室、ホール、演習室、倉庫を含む建物の建設―はほぼ完全に実現され、その敷地はさまざまな時代の遺跡と、ペスカーラPescara川の谷間をはじめ、アドリア海からマイエッラMaiellaおよびグラン・サッソGran Sassoの山々へと広がる見事なパノラマとともに時を過ごすことのできる公園となっている。
この計画には、準拠すべき点がいくつかあった。ひとつは、二千年にわたってキエーティの住民たちが知らずに運動競技を営んでいた場所であるこの地区への配慮であり、もうひとつは、さまざまな文化活動に向けられた新しいスペースを地下に展開することである。博物館の規模を決定するうえで基本となったのは、中心となる最も重要な展示品、すなわち神殿の破風装飾に関わる一連の展示物であった。復元図を見ると、それらの建物がかなり大きいものだったことがわかる―多色のテラコッタ板で覆われていた紀元前2世紀の3つの建物は、小さいもので幅およそ13メートル、最大で18メートルに達していた。
展示の流れ
この博物館はキエーティの歴史を語るものであり、その考古学的資料は、文学的典拠や碑銘によって補完されている。
まず、見学者は比較的こじんまりとした入り口から近代的な空間に導かれる―博物館の建物と、円形劇場の全観客席の大きさを暗示する木造の構造物の下にある企画展示室の建物、博物館の小広場を連結する部分がその空間を形作っている。
開かれた展示形態として最初に出会うのは、年代順の厳格な流れに沿って展開するのではない展示コースを見学者それぞれが選択できるというシステムである。そこには3つのテーマが設けられており、一日で全部を見て回ってもよし、数回にわたって見学してもよし―各自が自由に決めることができる。要所要所のパネルに書かれたお定まりの解説は、入場券と一緒に渡される小冊子("Visitando il Museo”)に記されているので、その場でいちいち読む必要もなく、展示のさまざまなテーマに集中して、それぞれが望むところで内容を深く掘り下げればよい。3つの主要なテーマに沿った展示コースのうち、「都市の始まり」(L’inizio della storia urbana)と題されたコースでは、博物館の建っている場所についての展示が中心で、キエーティの共和制時代(紀元前3−2世紀)、とりわけ2つの宗教的中心地―多色の見事な破風をもつアクロポリスと帝国時代のフォロ以前にあった聖なる井戸に結びついた聖域(小神殿Tempietti)―に関する遺物が展示されている。博物館見学は3つのコースの合流点をへて続いてゆく。そこにはある工夫がなされており、「古物収集か博物館か?」と名づけられたその部屋では、年代物のラジオから、1938年10月31日にキエーティの出土品収蔵館(Antiquarium Teatinum)が開館したと告げるラジオ放送の声が聞こえてくる。考古学的意識が形成される以前は、この分野は収集趣味が主体となっていたわけだが、キエーティにも地元の出土品を中心とした収集が存在した。「ローマ時代から昨日まで」(Da Roma a Ieri)と題されたコースには、ローマ時代の都市とその後の変遷を説明する品々が解説とともに陳列されている。建築、碑銘、彫刻などの展示物によって「マルチーニ人のテアーテ」(Teate Marrucinorum)[テアーテはキエーティの古代名、マルチーニ人はこの地方に定住したイタリア古代民族の一つ]の社会生活がしのばれる「道」の両側には、フォロ、劇場、円形劇場、公衆浴場、墓地―ルシウス・ストラックスLusius Storaxの霊廟の復元も見られる―などに関する展示スペースが設けられている。
第三の展示テーマは「マルチーニ人の土地」(La terra dei Marrucini)、つまりキエーティの影響の及んだ地域を扱っている。この部門には、古代イタリア種族のマルチーニ人が住みついたアテルノAterno川(ペスカーラ川)の谷あい一帯―ポポリPopoliの渓谷からアドリア海にいたる―を支配するテアーテ(キエーティ)に繁栄をもたらした戦略的な理由を理解するための材料が集められている。有名なコッレ・ディ・ラピーノの洞窟Grotta del Colle di Rapinoをはじめ、いくつかの遺跡例がこの古代種族の諸相を浮き彫りにしている。