アラゴン家の城塞はバイア Baia の入り江の南側を締めくくる岬全体を占め、そこからポッツオーリ Pozzuoli 湾のみならず、カプリ Capri やイスキア Ischia、プロチダ Procida の島々を望むことができる。砦の建設が始められたのは1490-93年、ナポリ王であったアラゴン家のアルフォンソ2世 Alfonso II d'Aragona が、ナポリに攻め入ろうとする敵軍の上陸を防ぐために、ポッツオーリ湾への出入りを監視する目的で、三方を海に突き出た絶壁に囲まれたこの崖を砦の建設地に選んだことによる。設計に携わったのは、当時、要塞建築における第一人者だったシエナの建築家フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ Francesco di Giorgio Martini であった。スペイン副王ペドロ・ディ・トレド Pedro di Toledo の時代に、要塞には根本的に手が加えられ、西側に狭間つきの二重の外壁が巡らされ、唯一海に守られていない城の南側に防備のための堀がつくられた。1993年にこの城はカンピ・フレグレイ Campi Flegrei 考古学博物館となった。見学順路は以下の4つの展示からなっている―― いわゆるバイアのテルメ Terme において発見されたローマ時代の石膏塑型群、ミゼーノ Miseno のアウグスターレスの礼拝所 Sacello degli Augustali、エピタッフィオ岬 Punta Epitaffio の皇帝のニンフェウム、ノーヴァ・アンティークァ・フレグレア Nova Antiqua Phlegraea の展示である。
●ローマ時代の石膏塑型室
この展示室には約100体におよぶ石膏像が並べられている。これらは紀元前1世紀末から紀元後2世紀にかけて、古代ギリシアの古典期およびヘレニズム期の著名な彫刻作品の複製をギリシアのブロンズ製の原作から直接取った石膏型をもとに作っていた地元の彫刻工房の作業場に残されていたものである。したがって、これらの石膏型は大理石による複製よりも失われたギリシアの原作に忠実であり、その芸術的価値をとどめるものといえる。これらの石膏塑型の中には、ギリシアの原作のうち最も重要な作品がいくつか見られる。「僭主暗殺者たちの群像 Gruppo dei Tirannicidi」、「コリントのペルセポネ像 Persefone di Corinto」(前5世紀中頃)、「エフェソスのアマゾンたち Amazzoni di Efeso」(前440-430年)、「アフロディテ Afrodite(通称ボルゲーゼのヘラ Hera Borghese)」(前4世紀頃)、「ベルヴェデーレのアポロ Apollo del Belvedere」(前330年頃)などである。
●ミゼーノのアウグスターレスの礼拝所
「テナリア Tenaglia(はさみ)」の塔の中のこの展示は、古代の建築を博物館内で見せるという珍しい例となっている。ここには、ミゼーノのアウグスターレスの礼拝所のアウグストゥス帝 Augusto の神殿のファサードが再現されている。雲母大理石でできた2本の円柱(あとの2本は古い時代に略奪された)が、アウグスターレス[神格化された皇帝崇拝のために任命された役人]であり、修復のための資金を提供したカッシア・ヴィットリア Cassia Vittoria とL.レカニオ・プリミティーヴォ L.Lecanio Primitivo 夫妻の奉納の銘文を刻んだ大理石のアーキトレーヴを支えている。夫妻の肖像は正面のペディメント上に表されており、2人の勝利の女神像に支えられた樫の葉の冠に囲まれている ――そこに自己神格化の意志があることは一目瞭然である。ファサードの後ろにはウェスパシアヌス帝 Vespasiano とティトゥス帝 Tito の裸体像があるが、これらの像はもともと聖像安置室の奥に設けられた2つの壁龕内に置かれていたものである。同礼拝所のその他の装飾としては、ドミティアヌス-ネルヴァ Domiziano-Nerva 帝のブロンズ騎馬像がある。本来ドミティアヌス帝(在位81-96年)のために作られた像であるが、その死後位に就いたネルヴァによって前皇帝の記憶からの抹殺が図られたために、その顔は新しい皇帝の顔に取って代わっている。
●エピタッフィオ岬の皇帝のニンフェウム
ここには、新しく作られた枠組みの中にクラウディウス帝 Claudio(在位41-54年)のニンフェウム=トリクリニウム[噴水や彫像などのある食堂]が再現されている。これはエピタッフィオ岬の斜面にあった部屋で、展示室は自然の洞窟の雰囲気を出そうとしているが、本来の場所は地盤変動のため水中約7メートルの深さに没してしまっている。ニンフェウムは長方形の部屋で奥に半円形の張り出し部があり、そこにはオデュッセウス Ulisse と革袋を持った彼の仲間によって泥酔させられたポリュペモス Polifemo(この像は発見されていない)を表したオデュッセイアの場面が展開され、長いほうの壁面には両側に各々4つの壁龕があり、それぞれに彫像が置かれていた。東側の壁に置かれていた3体(幼くして死んだクラウディウスの娘、豹をつれた少年ディオニュソス Dionisio と冠をつけた少年ディオニュソスの像)および西側の1体(皇帝の母「小アントーニア Antonia Minore」の像)のみが現存している。きわめて質の高いこれらの彫刻は、前2世紀半ばのヘレニズム彫刻の手本に着想を得たローマの工房 ――スペルロンガ Sperlonga のティベリウス帝 Tiberio の別荘の神話的群像を制作した工房である―― の作であることがわかっている。
●ノーヴァ・アンティークァ・フレグレア展示室
陳列品の中心となるのは、ポッツオーリのリオーネ・テッラ Rione Terra においてアクロポリスの東側の17世紀の建物の再生事業とともに進められた発掘作業からもたらされた出土品である。その際、古代の都市構造がかなり明らかになったほか、発掘現場からは多数の大理石による彫刻や建築材料が発見された。とりわけ、司教館の下の、植民市の幹線道路の一つに面した一連の地下歩廊の遺跡からは、非常に価値のある一連の彫刻や建材が発見された。これらはおそらく前5世紀のギリシア彫刻に手本を仰いだアウグストゥス時代の最も優れた伝統にのっとって、一種の貴族的な作品のギャラリーを形作っていたと思われ、大理石でできたアウグストゥス神殿の前にある柱廊を装飾していた陳列場だったのだろう。その手本となったのは厳格様式の作品と古典様式の作品であり、前者の作例として等身大より大きい2体のペプロフォロイ[ペプロスを持つ人](そのうち1体には頭部もそなわっている)が挙げられ、後者の例は優美な襞のある衣服を身に着けた頭部のある女性像 ――クレシラス Cresila に帰せられるブロンズ像の複製―― である。なかでも目を引くのは、フェイディアス Fidia の「アテナ・レムニア Atena Lemnia」のもう一つの複製であり、これはボローニャの市立美術館に唯一残る有名な同タイプの頭部に加えられるものである。その他のポッツオーリからの出土品は、住居の遺跡群やプテオリス(ポッツオーリ)-ネアポリム(ナポリ)Puteolis-Neapolim 街道 ――近年、大きな敷石の敷かれた長い道が発掘された―― に沿って配されたネクロポリスや霊廟の発掘作業からもたらされたものである。ボグナル通り via Bognar の地下で発見された別荘からは、取っ組み合うレスラーたちを白黒モザイクで表した約9x4メートル大の床が出土し、カンピ・フレグレイ通り via Campi Flegrei の、おそらく皇帝の住居と思われる別荘からは、室内装飾の調度品のかなりの部分が発見され、そのほかハドリアヌス時代の巨大な男性の頭部の肖像、小ファウスティーナ Faustina Minore の頭部、囚われの蛮族の男性像 ――これは女子寄宿学校の建物の下に永久に埋められてしまったと信じられていたプテオリ Puteoli[ポッツオーリの旧名]のフォロから出土したものに加えられるべきものである――、ローマ風のS字形の溝彫り装飾のある石棺などが出土した。
クーマ Cuma については、イゼオ Iseo の新しい出土品と、文化財保護局とともにナポリの諸大学とJ.ベラール・センター Centre J.Berard が関わった「プロジェクト・キュメ Progetto Kyme」からもたらされたものが展示されている。フェデリーコ2世 Federico II 大学が担当したクーマのフォロの発掘現場からは、カピトリウム Capitolium の外装用の陶片や凝灰岩のドリス式フリーズの一部、またフォロを取り囲んでいた柱廊を装飾していた武器を表すフリーズの断片が見られる。東洋大学 Istituto Universitario Orientale が担当した都市の北にある砦の発掘現場からは、西洋にギリシアが登場した頃の建築用テラコッタや陶片が出土した。一方、J.ベラール・センターのチームが関わった港の区域の発掘によって、同都市の海岸地域についての認識が完全に修正され、エウボイアによるクーマ植民の頃の同地の外観と海岸線の変化が明確にされた。バイアからはバイア城の「騎士の別館 Padiglione Cavagliere」の遺跡 ――そこにはローマ時代には嵌め石細工 opus sectile による装飾豊かな床をもつ別荘があった―― から出た中世以後の出土品と、モヌメンターレ公園 Parco Monumentale の別荘からの末期の第2様式によるフレスコ画断片が展示されている。最後の部屋はフレグレア地域のあまり知られていない遺跡リテルヌム Liternum ――プテオリと同じく前194年に建設されたローマの植民都市―― の紹介に当てられている。この遺跡については、都市の構造や、主に2世紀に年代づけられる一連の調度品の出土したネクロポリスのことがようやくわかりはじめたところである。