この要塞は、レッチェ Lecce から15キロ離れたコペルティーノ Copertino の町の古い時代における変化を締めくくるものであった。その規模と大きさは、副王時代の防御施設のうち、最も重要なもののひとつである。
当初、単独で建っていた主塔に、城の最初の核が見て取れる。要塞施設はシャルル・ダンジュー1世 Carlo I d'Angio が望んだ王国の軍事的再構築プログラムの一環をなしていた。その計画の中には、1267年にグァルティエーリ・ディ・ブリエンヌ Guartieri di Brienne に委任された伯爵領の行政中心地であったコペルティーノ城が含まれており、古い要塞はグァルティエーリによって、二層構造の一連の空間を配して再編成された。現在の入口に面した正面には、ラディスラオ・ダンジュー・ドゥラッツォ Ladislao d'Angio Durazzo とその妻マリア・ダンギヤン Maria d'Enghien の15世紀の紋章が見られる。紆余曲折を経て、1419年にマリア・ダンギヤンは、娘カテリーナ・オルシーニ Caterina Orsini とトリスターノ・キアロモンテ Tristano Chiaromonte との婚姻の際に領地を婚資として与え、その後娘のサンチャ Sancia と孫のイザベッラ Isabella の手に渡り、後者はこの城を夫のフェデリーコ・ダラゴーナ Federico d'Aragona への婚資とした。王になったフェデリーコは、城をアルバニアの王族カストリオタ・スカンデンベルク Castriota Scandemberg 家に譲った。アルフォンソ・グラナイ・カストリオタ Alfonso Granai Castriota は、1535年に城の改築をエヴァンジェリスタ・メンガ Evangelista Menga に任せた。あまり知られていないが、彼はカール5世 Carlo V に仕えた魅力的な軍事建築家である。5年の歳月をかけて、彼は壮大な城塞を作り上げた。すなわち、以前の砦を取り込み、主塔の張り出しや狭間を壊して代わりに厚い胸壁をつけ、規則的な形に整え、四隅に大きな稜堡を設け、岩盤をくりぬいて造った深い堀をめぐらした。そこには、砲台を備えた一層目が広い回廊となって外壁をめぐっており、4つの稜堡の砲台を同じく銃眼を備えた二層目がつないでいる。2つの層は梯子、上げ蓋、天窓によって垂直に連絡がつけられている。稜堡の側面と外壁との接合部には、複合銃眼が設けられ、2つかそれ以上に枝分かれして外壁と反対側の稜堡の側面防御が可能となっている。
東側に設けられた出入り口は、安全のため中央からずらして作られた。二重の出っ張りが砲台のある層を明らかにしており、同じく主正面に改築事業の委嘱と竣工年が記された銘がある。外壁の簡潔さを中断しているのはドゥラッツォ・カタロニア風の外観をもつ城門であり、グラナイ・カストリオタの支配にいたる系譜をメダイヨンに表した豊かな装飾が施されている。カストリオタの血統が絶えたため、1553年から1557年にかけて、城は王の所有に戻り、フェリペ1世 Filippo I によりスペインの総督の手に委ねられた。このころ、カストリオタ家のいかめしい装備が徹底的に剥奪された。防御機能を完全に奪われた城は、1557年9月に、オートラント Otranto の地から利益を得ていたジェノヴァのスクァルチャフィーコ Squarciafico 家に売却された。玄関近くの通廊の右側にある小さな空間を一族の礼拝堂(初めは聖マルコ San Marco に、後に昇天する聖母マリア Assunta に捧げられた)に変えたのは彼らである。そこにフレスコ画を描くためにコペルティーノ出身の画家ジャンセーリオ・ストラフェッラ Gianserio Strafella が呼ばれ、1568年に内部装飾が完成した。現在修復中だが、礼拝堂のフレスコ装飾は描かれた建築的枠組みにしたがって展開し、だまし絵による大理石のパネルに囲まれて等身大の聖人たち ―アレクサンドリアの聖女カタリナ Santa Caterina d'Alessandria、聖セバスティアヌス San Sebastiano(コペルティーノのかつての守護聖人)、コンポステラの聖ヤコブ San Giacomo da Compostela― が、マニエリスム盛期の様式で描かれている。天井には『四福音書記者 Quattro Evangelisti』と、新約および旧約聖書からの物語がいくつか描かれている。祭壇の左右には幕を上げる天使たちがスクァルチャフィーコ家のウベルト Uberto とステーファノ Stefano の墓碑を挟んでいる。この墓碑はガッリーポリ Gallipoli 出のルーポ・アントニオ・ルッソ Lupo Antonio Russo の手になり、レッチェ産の石を使い、当時のマニエリスム文化を反映した作品である。
不規則な台形をした中庭に面して、それ以前の要塞の跡が何層にもわたって残っている。左側には稜堡を結ぶ壮大な空間である回廊 ―現在特別展の会場として利用されている― への入口と、パラッツォ・ピニャテッリ Palazzo Pignatelli の3つの低いアーチからなる柱廊がある。内部には教育活動のためのマルチメディア室とブックショップがある。反対側には、今は会議室となっている堂々たるアンジューの間 salone angioino があり、その尖頭アーチからなる天井は、壁面の半ばで途切れている縄目装飾によって強調されている。その向かい側には屋根なしの大階段が中庭の二面にわたって続いている。階段の中ほどに15世紀のマッダレーナの礼拝堂 capella della Maddalena がある。この小空間は、ロッジアのアーケードを開放する工事の際に発見された。作業中、下にあるヴォールト天井の支柱の間に踏み固められた空間があることがわかり、外の階段の中間に位置する、後にふさがれた扉口から入れるようになっていた。個人礼拝堂の特徴をもつこの空間は、当初フレスコ画ですっかりおおわれていた。不当に手をつけられた16世紀に、天井が壊され、新しい壁体構造にその空間を組み入れるための穴埋めの材料として瓦礫が用いられたため、天井のフレスコ装飾の一部を取り戻すことができた。
この小礼拝堂で現在見ることができるのは、当初の配置と1.75メートルほどの壁の断面である。15世紀初めのフレスコ画については、以下のものが今でも見られる ―2人の貴婦人の寄進者に挟まれたマグダラのマリア Santa Maria Maddalena と、キリストの物語の一部をなす『キリスト降架 Deposizione』の場面、そして赤色顔料で描かれた一連の下絵である。穴埋めに用いられた断片から、もともとの装飾にいくつかの紋章が含まれていたことが明らかになった。オルシーニ家およびダンギヤン家の紋章を含む4分割されたキアロモンテの盾形紋章がはっきりと確認される。
外の大階段をのぼると、パラッツォ・ヴェッキオ(旧館)と呼ばれる、住居に充てられていた一角に入る。北側には壁面に沿ってルネサンス風の窓が開けられ、彫刻された帯状装飾をともなう持ち送りと小アーチからなる見事な軒蛇腹がつけられている。この一翼は、これまでの時代を通じて多くの改築がなされ、最初の木造の屋根に代わって交差ヴォールトやテント型ヴォールトが作られたが、部屋のひとつには16世紀の絵画装飾の跡が残っている。
一般公開されて以来(2002年1月1日より)、城を活気づける多彩な催し ―特別展や会議、セミナー、公演など― が目白押しである。目下、常設の博物館の開館に向けて準備が進められており、サン・ニコラ San Nicola の稜堡の中の兵器博物館(02年12月開館予定)と、剥がされたフレスコ画、イコンや絵画をおさめた絵画館の一次展示室が開かれることになっている(03年3月開館予定)。今年からすでに、教育プログラムに特別な注意が払われており、博物館の教育ラボラトリーの開設によって著しい進展が見られると思われる(02年10月開設予定)。ここでは、城での生活と芸術作品の理解に結びつく活動(衣装、音楽、フレスコ画や絵画の技法に関するワークショップ)が行われることになっており、その活動を通じて、子供たちや少年少女たちはコペルティーノ城の「おとぎ話」的な環境をすみずみまで体験することができるはずである。